レオナルド熊はひどいやつだと思ったらほんまにそうだった(笑)
そういうのをFacebookでみたから抜粋します
相方を25人もクビにした男。レオナルド熊は悪役か天才か——癌がわかって2ヶ月で焼肉を食べて死んだ
今日は、お笑い界最強の「問題児」の話をしよう。
彼の名はレオナルド熊。本名・井上千蔵。1935年生まれの北海道出身。1994年、59歳で死んだ。
この男、一体何がすごいって、相方を25人以上も変えているんだ。普通のコンビ芸人なら、一生に一人か二人の相方と組むのがオチだ。25人って……お前、相方を使い捨てカイロみたいに使ってるのか?
ギャラをピンハネする。弟子をいじめてノイローゼにする。結核で5年も入院する。生活保護を受ける。そして46歳になってようやくブレイクする。
年収40万円が、たった1年で4000万円になった。100倍だ。
そんな破天荒な男が、末期の膀胱癌宣告を受けたのは死ぬ2ヶ月前。仲間たちが「ガン祝いの会」まで開いて、彼を見送った。そして家族と焼き肉を食べた直後、突然倒れて、二度と起きなかった。
良い奴なのか、悪い奴なのか。天才なのか、ただのクズなのか。
今日はレオナルド熊の、怒涛のような人生を紐解いていこう。
- 北海道の農村から上京したドサ回り芸人
1935年6月27日、北海道樺戸郡新十津川村に生まれた井上千蔵——のちのレオナルド熊。
農村の出身だ。高校を3年で中退し、18歳で単身上京する。役者になりたかったんだって。だが、そう簡単に世の中甘くない。
芽が出ないまま、なんと14年間も地方巡業を続ける。ドサ回りの役者として、日本中を放浪した。
その後、浅草にたどり着き、ストリップ劇場の幕間コントでコメディアンに転向する。当時の芸名は「北海の熊」、のちに「熊田にげろう」。「逃げる」という字を使うあたり、もうこの時点で性格がにじみ出てるよな。
ストリップ劇場の幕間ってのは、お客さんが次のショーを待つ間の「つなぎ」だ。客は基本的に待ってる側。笑わせられなきゃゴミ同然。そこで生き残れたってことは、それなりの実力があったってことだ。
だが、この男は実力があった代わりに、人間関係では最悪だった。
たこ八郎をはじめ、何人もの芸人とコンビを組んでは解散、組んでは解散。毎回のようにケンカ別れ。理由はたいてい「金」と「横柄さ」だ。相方のギャラをピンハネして、自分の懐に入れる。だから誰と組んでも長続きしない。
副業でおにぎり屋まで経営していたらしい。芸人だけじゃ食えなかったんだろうな。
そんな中、1973年、38歳の時、持病の結核が悪化する。
5年間の入院生活。この頃は生活保護を受けて、どん底だった。
人生終わったな。誰もがそう思った。
だが、この男は底辺から這い上がる才能だけは、本物だった。
- 石倉三郎との出会い——年収40万円が1年で4000万円に
1979年、退院したばかりの44歳の熊は、元弟子のホープ(ゆーとぴあの城後光義)の紹介で、石倉三郎と出会う。
石倉三郎は元俳優で、「チャップリンズ」というコンビを解散したばかりだった。二人は「ラッキーパンチ」というコンビを結成する。
名前の由来は、師匠格だった「ラッキー7」(関武志とポール牧)からもらったものだ。
このコンビ、たちまち人気が出る。
だが、やっぱり熊の持病が邪魔をする。結核が再発しては倒れ、舞台を休み、仕事がキャンセルになる。石倉はこう後に語っている。
「熊は持病の結核でしょっちゅう倒れるんですよ。その度に飯が食えなくて疲れちゃいましてね」
「暮れに正月番組の収録でテレビ局を掛け持ちして、これでいい正月が迎えられるなと喜んでると、新年早々に倒れる。『笑点』の出演がパーですよ。地方の営業もキャンセル。またかよ、とガックリする。そんなことが何度もあってね」
ついに石倉は熊に言い放つ。
「あんた、このままだと死んじゃうぜ?もうやめなよ。俺もやめるわ」
こうして「ラッキーパンチ」は、たった1年弱で解散した。
石倉は芸能界に見切りをつけ、マザー牧場で働いたり、千葉でトマトの水耕栽培をしたりして、普通の生活を送っていた。
一方の熊は……また相方を探す。
弟子のブッチー武者とコンビ「熊田うつぞう・にげろう」を組み、やがて「コント・レオナルド」に改称。同時に自身の芸名も「レオナルド熊」に改名した。
なんで「レオナルド」なのか? 本人いわく「なんとなくかっこいいから」だそうだ。ダ・ヴィンチとかディカプリオとか、そういうのとは一切関係ない。
この初代コント・レオナルドも長続きしない。ブッチー武者をいじめ抜いてノイローゼにし、解散に追い込んだんだって。ブッチーは後に「オレたちひょうきん族」で「ひょうきん懺悔室の神様」役でブレイクするんだけど、その頃のトラウマは相当なものだったろう。
で、熊はまた石倉三郎を探し出す。
「相棒が逃げた。一緒にやってくんねえか」
なんと、トマト農家をしていた石倉を口説き落として、二代目「コント・レオナルド」を再結成させちゃうんだから、この男の口車に乗せられる才能は尋常じゃない。
この二代目コント・レオナルドが、大ブレイクする。
時事ネタを風刺する辛口コントがウケた。漫才ブームの中で、彼らは比較的高齢のコンビだったけど、逆にその「貫禄」と「ブラックさ」が新鮮だったんだろう。
1983年、サントリービール「生樽」のCMに出演。「いかにも一般大衆が喜びそうなアイディアですな」というセリフが流行語大賞に選ばれる。
年収は、コンビを組んだ年の40万円から、翌年にはなんと4000万円に跳ね上がった。100倍だ。
ギャラは、熊と石倉とマネージャーの石井光三の3等分だったらしい。当時の営業ランクは120万円で、なんとツービートより高かった。
マネージャーが石倉に「なんでこんなにギャラが高いんですか?」と聞いたら、こう答えたそうだ。
「熊さんは体が弱くて、いつ倒れるかわからないのは業界じゃ有名で、レオナルドの舞台は希少価値があるから高いんだって」
笑えるような話だけど、本当に彼はいつ倒れてもおかしくなかった。それが希少価値になっちゃうあたり、ショービジネスの残酷さがにじみ出てるよな。
- 金に汚く、横柄で、弟子を泣かせ——悪魔のような師匠
レオナルド熊の性格については、今でも語り草になっている。
一言で言えば「最悪」だ。
相方が25人以上いるのは、全部彼のせいだ。ギャラをピンハネする。横柄な態度をとる。反省しない。金にだらしない。
弟子たちへのパワハラもすごかったらしい。
最も有名な弟子の一人、ホープ(ゆーとぴあ)は、熊のもとで3年間修行したけど、熊の常軌を逸した行動に耐えられなくなって独立した。
どんな常軌を逸した行動かって?
「お金を徴収されたり、彼女を寝取られたり」
だって。おいおい、師匠が弟子の彼女を寝取るのかよ。それどういうゲームだよ。
ホープは独立後、「ゆーとぴあ」として大成功する。普通なら絶縁するところだけど、彼は後年こう言っている。
「ヨゴレ芸人ってみんなバカにしたけど、芸や発想などは天才だった。熊師匠、怖い人だったけど何だかんだ言って優しかったよね……」
これ、複雑な心境だよな。ひどい目に遭わされたのは事実だけど、それでも芸の才能だけは認めざるを得ない。恩義も感じてる。だから「悪い奴だけど嫌えない」みたいな。
他にも薬物疑惑がある。
ビートきよしや石倉三郎、元弟子のホープら、近しい人間たちが口々に「熊はシャブ(覚醒剤)をやってた」と証言している。
ビートきよしはこう言った。
「ポン中だったから普通じゃない」
ホープも、熊がこう言ったのを聞いたと証言している。
「雪が降ってるな……これがみんなシャブだったらなあ」
ひどすぎる。だけど、そこまで言っちゃうあたり、この男の根っからのブラックさがにじみ出てる。
ちなみに、師匠のポール牧から一度破門されたこともある。熊が無断で芸名を変えたり、勝手なことばかりするから、ついに怒ったんだろう。
こうやって書くと、完全に悪役みたいだよな。
だが、この男には悪役だけでは語れない、不思議な魅力があった。だからこそ、何度も裏切られても、また彼と組みたがる人間が現れたんだ。
- 石倉三郎との最終決別——絶交の真相
二代目コント・レオナルドは、人気絶頂の中、1985年に解散する。
原因はまたもや熊の横柄さと金銭トラブルだった。
人気が出てきたら、熊は調子に乗ってくる。ギャラの配分を勝手に自分に有利に変える。弟子を相方に裏でコンビを組んで、こっそり闇営業までする。
石倉三郎は、二度目の嘘には耐えられなかった。
二人は完全に絶縁する。その後、レオナルド熊が死ぬまでの9年間、一度も顔を合わせることはなかった。
コンビ解散後の熊は、マネージャーだった石井光三と「劇団七曜日」を旗揚げする。ピンクの電話、デンジャラス、磯野貴理子など、若手お笑い芸人を抱えて、後進の育成に力を入れたという。
だが、やっぱり長続きしない。熊自身が副業を始めたりして、次第に芸能活動から遠ざかっていく。
そして、少しずつ人々の記憶から消えていく。
かつて年収4000万円あった男も、時代の流れには勝てなかった。
- 二度の結婚——行方不明の元妻と、14歳年下の女優
プライベートの話も少ししよう。
熊は結婚を2回している。
最初の妻は、下積み時代に結婚した一般人の女性。だが、貧しい生活に耐えられなかったのか、妻は忽然と姿を消してしまう。その後、10年間も行方不明だったんだって。
離婚しようにも相手がいない。だから、中川加奈と同棲して子供ができても、なかなか結婚できなかった。
中川加奈は元女優で、熊より14歳年下。二人の馴れ初めは詳しくわかってないけど、同棲して妊娠がわかり、授かり婚という形で結婚した。
1984年2月21日。雪が降る寒い日、板橋区役所に婚姻届を出しに行った二人。取材陣が大勢詰めかけていた。
熊は取材陣に向かってこう言って笑わせた。
「早めに入籍しとかないと、出るもんが出ちゃうからな」
だが役所のカウンターで、保証人のハンコが一つ足りないことに気づく。熊は大慌てで、周りを見回して、そばにいた芸能リポーターの梨元勝に頼み込んだ。
「すいません、どなたかお願いしますよ」
まるで自分のコントのワンシーンみたいなハプニングだ。梨元が保証人になってくれて、なんとか婚姻届は受理された。
こうしてできた家族には、長男と長女の二人の子供が生まれた。
長男は「レオナルド小熊」の芸名で一時期芸能活動していたけど、後にギタリストに転向。今は「井上"KB"幸法」としてプロのミュージシャンとして活躍している。ロサンゼルスまで留学して、本格的に音楽を学んだんだって。
娘は一般人で、詳細は公開されていない。
破天荒なイメージの熊だけど、家族には案と深い愛情を注いでいたらしい。病気がわかる直前まで、家族との時間を大切にしていたという話もある。
悪い面ばかりが強調されがちだけど、家庭では普通のお父さんだったのかもしれない。
- 末期ガン宣告——「ガン祝いの会」と、焼き肉の最期
1994年10月。
レオナルド熊、末期の膀胱癌が発覚する。死ぬわずか2ヶ月前のことだった。
もう手の施しようがない状態だった。
だが、彼は意外とあっさり受け入れたらしい。
仲間たちは彼のために「ガン祝いの会」なるものを開いた。マギー司郎やゆーとぴあのホープら、親交のあった芸人たちが集まって、彼の人生を労い、励ました。
まるで生前葬みたいなものだ。自分が死ぬ前に、みんなで最期の宴を開く。なんか、この男らしい最期の迎え方だよな。
そして、宣告から約2ヶ月後の1994年12月11日。
家族と一緒に外食に出かけ、焼き肉を食べ終わった直後、突然容体が急変した。
運ばれた国立第二病院で、急性心不全のため死亡した。59歳だった。
末期の膀胱癌だったけど、直接の死因は心不全だった。癌が心臓に影響したのか、それとも別の原因なのか、詳しいことはわかってない。
焼き肉を食べて、その直後に死ぬ。なんだか、とても彼らしい最期だ。
最期の晩餐が焼き肉。これはこれで、男の最期として悪くないんじゃないかな。
- 葬儀に現れた石倉三郎——9年ぶりの対面
レオナルド熊の葬儀には、大勢の芸人関係者が駆けつけた。
その中に、石倉三郎の姿もあった。
9年間、一度も会うことも話すこともなかった元相方だ。喧嘩別れして絶縁した男だ。
だが、彼はちゃんと駆けつけた。
熊の死を聞いて、どんな気持ちだったろう。恨んでたのか、それとも許してたのか。それとも、ただの昔の仲間への別れだったのか。
石倉は特にコメントは残してない。だけど、葬式に来たという事実だけで、いろんなことが伝わってくる。
二人の間には、愛も憎しみも、全部ひっくるめた「絆」みたいなものがあったんだろうな。
コンビの相方って、そういうもんだ。家族よりも近くにいて、家族よりもケンカする。でも、最後にはやっぱり駆けつける。
石倉三郎は、2025年現在もまだ生きている。今年で80代前半になってるはずだ。今頃、天国の熊を見て、何を思ってるだろう。
最後に
レオナルド熊って、本当に複雑な男だ。
良い奴とは絶対に言えない。金に汚いし、人をいじめるし、横柄だし、相方をないがしろにする。
だけど、彼の芸は天才的だった。20年近い下積みを経て、46歳でブレイクし、時代の寵児になった。そして年収100倍という伝説を残した。
「いかにも一般大衆が喜びそうなアイディアですな」
あのセリフが流行ったのは、彼が社会の矛盾や権力者の嘘を、私たち庶民の視点からバッサリ切ってくれたからだ。誰もが心の中で思ってることを、代わりに言ってくれる。それが彼のコントの心地よさだったんだろう。
悪い面も良い面も、全部ひっくるめてレオナルド熊だった。
クズだけど愛せないクズじゃない。天才だけど人間的にはボロボロ。
そんな男が、焼き肉を食べて家族のそばで死んだ。
59年という人生は短かったかもしれない。だけど、濃さで言ったら、普通の人の何倍も生きたよな。
天国でまた石倉とコンビを組んで、あの「酔っ払いと警官」のネタでもやってんのかな。
きっと今頃、あちらでも相方を替え替えして笑わせてるに違いない。