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副題は「僕とコンサと厚別で」! 【年 齢】アラ還 【住まい】厚別区内 【家 族】嫁、長男(独立)、長女(独立) 【初観戦】’98Jリーグ2ndステージ第2節サンフレッチェ広島戦 〔初アウェイ〕’11J2リーグ第34節東京ヴェルディ戦(味スタ) 【アイドル】ピクシー(元ユーゴスラビア代表ストイコビッチ氏) ■2006年9月26日ブログタイトルを”コンサと僕と厚別で!”から”コンサ日和”に変更しました。 ■2009年2月15日から11月21日まで休刊していました。この間の記事はアメブロに投稿したものです。 ■2005年4月5日から2008年4月2日まで八雲町に単身赴任。 ■2011年6月3日から2013年4月3日まで根室市に単身赴任。 ■2013年4月4日から2015年3月31日まで旭川市に単身赴任。 初投稿 2005/11/05 290万アクセス 2018/12/9 4131アクセス 2011/03/19 ・2011.6.8から再びコメントをいただくこととしましたが、多忙なため現在はコメントはお受けしておりません m(_ _)m

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ウィル!

2006年01月11日

 ウィルのことを覚えていますか。ウィルは、コンサがJ1に昇格した’01シーズンにエメルソンに替わるFWとして大分トリニータからレンタル移籍してきた選手です。気性が荒いと言うか、感情をコントロールできないというか、そのため「俺王様」というニックネームもお持ちでした。

 そんなウィルでしたが、’01シーズンは岡田監督のコントロールが良かったのか、気に入らない同僚が居なかったのか、大活躍でJ1得点王にもなっています。コンサドーレ史上、後にも先にもJ1得点王はウィルだけです。まあ、コンサがJ1で戦ったのは3シーズンだけですが。(やや自嘲気味)ウィルは、FKも魅力でしたが、ためが作れてシュートも正確で本当に優れたプレイヤーでした。ウィルは、見た目はちょっと怖い感じもしましたが、カメラを向けるとニッと笑ってくれるサポには優しい存在でしたね。

 翌シーズンもコンサでプレイすることを望んでいたウィルでしたが、シーズン終了後、横浜F・マリノスに移籍してしまいます。どうやら、横浜では気に入らないことが多々あったのか、磐田との試合中に同僚を後ろから蹴ってしまい、一発レッドで退場、そして退団と相成ります。

 ’03シーズン、ウィルは札幌に戻ってきますが(またもレンタル)、ハットトリック達成後の翌第7節甲府戦で左足を負傷。全くついていませんね。回復の遅れに焦ったコンサ(失礼)は、大分からアンドラジーニを獲得しウィルは大分に帰ります。詳しい経緯は知りませんが、療養中の事件もまずかったですね。その後、大分との契約も満了、’04には、中国のCリーグでプレイしていましたが、今はどこで何をしているのでしょうか。

 でもね、’02シーズンもコンサにいてくれたらと思いますよ、今さら言っても仕方ないけどさ。まあ、ウィルが信頼していた岡田監督やなだめ役の野々村さんがいないコンサで上手くやれたのか疑問ですが。(それに柱谷監督じゃ・・・。)

 今回で懐かしいプレイヤーの紹介も終わりです。ペレイラやディド、アウミール、バーヤック、ジャディウソン、ホベルッチなどまだまだ書いておきたい選手も居ますが、続きは、’06シーズン終了後にします。  


’03J2リーグ第6節!

2006年01月10日

‘03J2リーグ戦で印象に残っている試合と言えば、4月12日室蘭で行われた第6節福岡戦です。当日は、あいにくの雨天だったと記憶していますが、震えながら、それでもビール片手に応援していました。

 このシーズンは、ホベルッチとベット(元セレソン)そしてウィルという超強力な補強をしましたが、ホームゲームで3人が顔をそろえたのは、この試合だけでした。室蘭まで見に行って本当に良かったと今でも思います。

 試合は、一方的なコンサペースで、21分ホベルッチ、23分には砂川が得点し前半を終了、後半に入り16分、21分、40分、ウィルが立て続けに得点し、ハットトリックを達成しています。

 誰もが、この試合をきっかけにコンサの快進撃を予想したと思いますが、ベットがホームシックで退団、その後、ホベルッチがジョアン・カルロス監督と衝突し退団、ウィルも怪我が原因で退団してしまいます。本当に一瞬のキラメキとはこのことでしょうか。

 ただ、鹿島でも名古屋でも選手と軋轢を生み、特に名古屋では3人の主力選手を首にしたジョアン・カルロス監督を招へいした時から、嫌な予感はしていましたが。(監督も結局解任され、張さんが2年続けて後始末をすることとなります。)

 そして、‘01シーズンでJ1得点王になりながら横浜F・マリノスに移籍し、再び札幌に戻ってきたウィルに関しては、’01シーズン最終戦、札幌ドームの客席から寂しそうに試合を観戦(累積?)していた横顔を覚えているだけに、もう一花咲かせて欲しかったものです。あと、ホベルッチのFKすごかったですね。

 印象に残っている過去のコンサの試合を振り返ってきましたが、今回で一応終了です。柳下監督が就任した’04以降については、今シーズン終了後、3年分まとめて振り返りたいと思います。どのような、結果が待っているのか楽しみです。


’02J1リーグ2ndステージ第15節!

2006年01月10日

‘02シーズンは、チームにとってもサポにとっても、あまり思い出したくないシーズンだと思います。

 岡田監督の後を引き継いだ柱谷監督は7試合で1勝しかできず早々と交代、サルベージと言われたイバンチェヴィッチ監督は「もうアイデアがない。」と言い残し辞任、最後は、張さんが助監督から監督に就任と監督の交代が続き、当然結果も年間30試合で5勝しかできまず、J2に降格となります。

 そんな‘02シーズンで、翌シーズンに期待を持たせてくれたのが、最終戦(2ndステージ第15節)の広島戦でした。このシーズンは、逆転負けや延長Vゴール負けが多く、イバンチェヴィッチ監督の辞任の原因とも言えますが、最終節は、コンサが延長Vゴールで勝った唯一の試合です。

 試合は、前半7分小倉のゴールで先制するものの、前半終盤に同点にされ、後半2分、8分に得点を許し3対1と完全に負け試合でしたが、10分に曽田、39分に相川が得点し同点に追いつきます。その後、終了間際の42分に逆転され、万事休すかと思われたところ、その1分後に曽田が得点し同点に追いつきました。試合は延長戦に突入、延長前半9分、曽田がヘッドで得点しVゴールで勝利を収めます。まさに一喜一憂する何とも目まぐるしい試合展開でしたが、本当にエキサイティングで盛り上がった試合でした。

 曽田はハットトリックの大活躍でしたが、1点目と2点目は相川のパスを右足でシュート、そして3点目は森のスローイングをヘディングシュートした得点でした。もちろん、この試合のMIPは曽田選手です。試合後、ヒーローインタビューを受ける相川選手と曽田選手の笑顔が印象に残っています。

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’01J1リーグ2ndステージ第5節!(堀井選手へ感謝を込めて!)

2006年01月08日

 2001年は、3年ぶりのJ1リーグと言うことで、もの凄く盛り上がったシーズンでした。チケットが完売と言う試合も結構ありましたね。

 このシーズンで、印象に残っている試合と言えば、播戸がゴールを決めて大喜びした1stステージ第6節ガンバ大阪戦、厚別競技場2万人応援のあった第9節鹿島戦、ウィルがハットトリックを決めた2ndステージ第7節神戸戦もいいですが、やはり、ここは堀井岳也の延長Vゴールで勝った第5節清水戦を取り上げます。

 ‘01J1リーグのコンサの戦績は、1stステージの前半こそ勝ち星に恵まれましたが、後半から失速、急遽補強したのが、J2の山形で10得点をあげていた堀井選手です。

 清水戦は、開始早々の7分澤登に先制されましたが、後半5分にアダウト、34分にウィルが得点し逆転、久しぶりの勝利だと思っていたら、ロスタイムに同点に追いつかれてしまいます。

 堀井は、ウィルの得点後、播戸と交代して入ったと記憶していますが、延長前半14分、大森のパスをゴール前で、堀井が軽く右足に当てたと言うか触れたボールはループシュートのようにゴールに吸い込まれたのでした。そして、観客が総立ちになったのは言うまでもありません。この試合のMIPを受賞したのも堀井です。

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 しかし、堀井がこのシーズンにあげた得点は、この1点のみであり、その後も、怪我もあったのでしょうが、あまり得点していませんね。
 多分、来季は期するものがあると思います。故郷甲府での活躍を期待しています。




エメルソン!

2006年01月07日

 エメルソンを覚えていますか。覚えているに決まっていますよね。

 エメは、‘00シーズンにサンパウロFCからレンタルで移籍してきた選手ですが、前年‘99にはU-20ブラジル代表にも選出された選手です。
 エメのデビューは、余りにも鮮烈でした。シーズン開幕戦の鳥栖戦でいきなりのハットトリック。そのスピードに口があんぐり状態でした。(スカパーで見てました!)

 その後も得点を重ね、第9節までの7試合(このシーズンはJ2のチームが11チームのためお休みの節がありました。’06シーズンもそうなりますね。)で9得点。シーズン初観戦となった5月4日の湘南戦(厚別初戦)でも、ドリブルから右足シュートで1得点をあげ、まさに救世主現るという感じでした。結局、エメはこのシーズン31得点をあげ、J2得点王になっています。

 当時19歳のエメは、ラテン気質ということもあったと思いますが、陽気でサインや写真にも気軽に応じてくれました。今でもビジュやアウミールと一緒に笑顔で写真に収まっているエメを見ると、「良いやつだったなあ!」と思ってしまいます。

 しかし、エメは家族と離れてやはり寂しかったのでしょう。ブラジルに帰国するとなかなか帰ってこなくてヤキモキしましたね。また、時間にルーズなところがあったようで、堪忍袋の緒が切れた岡ちゃんに「もう、(練習に)来なくて良い!」みたいなことを言われ、最終戦を待たずブラジルに本当に帰ってしまいました。(間違っているかも知れませんが。)

 その後、‘01シーズンは、川崎経由で浦和に移籍し、今は中東のどこかにいるようです。

 でも、私は今でもエメが大好きです。金の亡者みたいに言われた時期もありましたが、ブラジルから出稼ぎに来ている彼が金のために動いても致し方ないと思いますし、何より、‘00シーズンは4試合しか負け試合を見なくとも済んだのですから。

 エメ資金5億とか、日本に帰化してU-23代表入りとか、エメの気持ちにお構いなしに回りが騒ぎすぎたような気もします。そんなエメは、まだ24歳です。


’00J2リーグ第25節!

2006年01月07日

 シーズンオフの暇潰しに、印象に残っているコンサの試合を書いていたら、もうすぐキックオフ2006ですね。開幕まであと2ヶ月、早いものです。

 さて、2000年J2リーグで印象に残っている試合と言えば、J1昇格の決まった第38節の水戸戦や優勝が決まった第40節の大宮戦をあげるのが常識的かも知れませんが、ここは、7月29日(土)厚別で行われた第25節の浦和戦を取り上げてみます。

 この日は、ハッキリ言って満員御礼状態で、私が着いたときには、B自由席はアウェイしか空いておらず、それも何とか空けて貰って座ったような状況でした。
 試合開始前、ゴール裏では、ゴール裏サポによる応援イベントがありました。参加できなくて残念でしたが、逆に写真を撮る幸運にも恵まれ、その見事さに感動したものです。

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 それに引き換え、浦和と言えば、発煙筒は焚くわ、ドーレ君にペットボトルを投げつけるわと、やりたい放題で、全く呆れたものです。(以後、こういうことはありません。念のため。)

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 試合は、前半に浦和が先制したものの後半18分に田淵、41分に大森が得点し、逆転勝ちしました。試合内容自体はほぼ互角だったように記憶しています。それにしても、浦和サポの傍若無人ぶりに頭に来ていたので、勝って、すごく気持ちよかったのを覚えています。

 それから、5年、浦和は天皇杯で優勝だとか。
 今年は、コンサの年にしたいものです。(天皇杯で優勝すると言うことです。)



アシスとビジュのこと!

2005年12月29日

 アシスとビジュを覚えていますか。2人とも1999年にコンサに入団した比較的アタリの選手です。

 アシスは、フルネームをロベルト・ジ・アシス・モレイラといい、ブラジル選抜にも選ばれたことのある選手で、FKを蹴りに行くときの大また歩きで自信満々の態度が印象的でした。(FKもそこそこ見られたものでした。)このシーズンは、外国人選手を総入れ替えし、アシスのほか、MFのクレーベルとFWのリカルジーニョを補強したのですが、アシスを除きシーズン途中で退団しています。

 そのアシスも、シーズン終了後、引退。現在は、9歳年下の弟ロナウド・ジ・アシス・モレイラの代理人をしています。ロナウドとは世界年間最優秀選手(FIFA)に2年連続選出されたロナウジーニョのことです。(念のため。)コンササポにとっても自慢(?)ですね。

 そして、シーズン途中に入団したのが、アンドレ・ルイス・ジ・ソウサ・シルバことビジュです。とにかく、ビジュの運動量はとても人間とは思えないほどで、相手ゴール前で攻撃に参加していたかと思えば、一瞬の相手カウンター攻撃に反応、猛ダッシュでボールをカットすると言った具合でした。

 ビジュは、戦術云々というより本能でプレーするタイプで、歴代外人選手の中でもかなりの人気者でした。サッポロ・ビージュという段幕も笑えましたね。あの段幕の左下にビジュのサインが入っていたのですが、サインは、段幕を作成したサポが白旗山での練習終了後、ビジュに段幕を披露し貰ったものです。(私、当日、偶然見かけました。違っていたらごめんなさい。)ビジュは、結局2002年シーズンまでコンサに在籍しましたが、歴代の外国人選手の中で、人気は1番だったかも・・・!


’99J2リーグ第9節!

2005年12月29日

 1999年と言えば、岡田武史氏がコンサドーレの監督に就任し、1年でJ1復帰という期待で盛り上がりました。岡田さんの人気は絶大で、岡ちゃんフィーバーと言える状態でした。

 シーズン当初は、後に岡ちゃん自身も語っているとおりJ2を甘く見ていたのか、散々の成績でした。第8節終了まで2勝6敗、室蘭でのホームゲームも1勝2敗で負け越していました。このような成績にもかかわらず、5月2日、厚別初戦のヴァンフォーレ甲府戦は、異常な盛り上がりでした。多分、岡ちゃん効果だったと思います。(観客15,000人ぐらいだったかな。)

 私も、最初は、「岡ちゃんってどれ!」といったスタンスで、家族と観戦していたのですが、吉原宏太が前半22分、27分に立て続けに得点し、後半開始3分に3点目をあげハットトリックを達成した頃には、もう岡ちゃんどころではありませんでした。ハットトリックを達成した宏太は、右足をゴール裏の看板に上げ得意げにポーズしたのを覚えています。かっこよかったですよ。競技場は、お祭り騒ぎの盛り上がりでした。
 その後も、新外国人アシスが直接FKを含む2得点、リカルジーニョが初得点を上げ、終わってみれば6対0の爆勝でした。

 この勝利からチームの調子も上向き、勝ち星を重ね一時は3位まで順位を上げたのですが、27節から29節までの3連敗と35節、36節(どちらも厚別でのホームゲーム)の連敗で、結局、年間成績5位でシーズンを終えることになります。

 このシーズンは、外人選手に泣かされたシーズンとも言えますが、岡田さんが「外人選手は博打みたいなもの。」と言っていたのが印象的でした。(発言内容は、少し違うかも知れませんが、要するに使ってみないと分からないということでしょうか。)

 そして、シーズンオフには、コンササポにとっては、初めての人気選手の移籍(もちろん吉原宏太選手のことです。)という辛い経験もすることとなります。
 やはり、チームは強くなければいけません!そして、来シーズンの外人FWは誰それ云々よりアタリでありますよう、切に願っています。


バルデスとマラドーナのこと!

2005年12月23日

 バルデスとマラドーナを覚えていますか。

 デリー・バルデスは、元パナマ代表でパナマの怪人などとも呼ばれていました。もちろん、歴代のコンサFWでは最高だと思います。彼の忘れられないゴールシーンと言えば、何と言っても98Jリーグ1stステージ第11節のヴィッセル神戸戦ですね。
 後半32分、相手DFがGKへバックパス。疾風のごとくボールを追いかけるバルデス。凄まじいスピードに焦るGK。空を切るGKの右足。転がるボールをゴールネットに突き刺すバルデス。
 後にも先にも、こんなゴールを観たのは、この時だけです。それぐらい、バルデスの足は凄かったわけですが、次節のジェフユナイテッド市原戦ではハットトリックをやっちゃうなど絶好調でした。

 そして、バルデスと言えばウーゴ・マラドーナですね。あのスーパースター、ディエゴ・マラドーナの弟ですが、コンサ史上最高の選手の一人だと思います。当時、マラドーナとバルデスの関係はホットラインと言われており、随分2人でゴールを演出したものでした。
 また、マラドーナのFKも見応えがありました。98年の何節かは忘れてしまいましたが、左コーナーポスト付近から放たれたマラドーナの右足FK(CKだったかも知れません。)は、そのままゴールニアサイドに吸い込まれて行ったのです。私は、思わず「え”ー!」と唸ったものです。
 その時のマラドーナのコメントは、「相手GKがファーサイドにポジションを取っていたので、空いていたニアサイドを狙ったのさ!」と言った内容だったと記憶しています。ほんと凄いです。

 しかし、こんな選手が在籍していたのに、結局、コンサはJ2に降格してしまいました。降格が決まった試合後、泣き崩れる関を抱きしめるマラドーナの優しい横顔が目に焼き付いたままです。今は、何をしているのかなあ!


’98Jリーグ2ndステージ第17節!

2005年12月23日

 1998年11月14日厚別公演競技場で、98Jリーグ2ndステージ第17節が行われました。
 対戦相手は、横浜フリューゲルスでした。1試合でもこのチームで試合を続けたいというフリューゲルスの選手、スタッフそしてサポの熱意によるものなのか、結果は、1対4のコンサドーレの大敗でした。

 私は、当時10歳の息子と浦河町から観戦に向かいました。宿泊は、現在のシェラトンホテルで、確かツイン1室2名で11,000円の格安パックだったと記憶してします。12時頃、ホテルにチェックインしたのですが、フロント付近に見慣れた顔を見つけました。何と、14時キックオフの試合を控えたマラドーナが立っていたのです。ほかにも有馬賢二やペレイラもいました。

 私は、ビックリしてしまい、写真を撮ることもサインを貰うことも思いつかず、「頑張って!」の一言すら掛けられませんでした。今思うと、声ぐらい掛けていればと思う反面、いくら選手を激励するためとは言え、試合前にホテルで昼食会とは、何か違うんじゃないのと思えてなりません。(まだ、こんなことやっているのかなあ…)

 この試合のあと、フリューゲルスは天皇杯を勝ち続け、消滅するチームが優勝するという劇的な結末を迎えます。
 一方、コンサは、J1参入戦を、神戸、福岡と戦い、絶対有利と言われていましたが、結局1勝もできずにJ2へ降格という辛酸を味わうのでした。

 もの凄い寒風の中、震えながら応援したあの日のことは、忘れられません。
 来年こそJ1への切符を絶対に勝ち取ってほしいものです!