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コンサの応援は、岡田監督のころから。 はじめは頂き物のSS席で。 すぐに、選手とサポと皆が一体になる楽しさにはまりました。 コンササポの温かさに惹かれて、次第にS席からSBへ、そしてゴール裏へと移動。 ついでに、すみかまで移動してしまったので、アウェー中心となった今は、少ない人数で団結する楽しさを味わっています。 困るのは、旦那もサポなので、グッズを買うのも、遠征するのも、コンサに関しては誰も止めてくれる者がいないこと。 札幌にもなんとか年数回里帰りして、ホームの雰囲気をうれしがってます。
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2017年07月03日
都議選での、安倍さんの「こんな人」発言がニュースなどで取り上げられてますが、あれを聞いて、私はゾッとしました。 自民党は今回の都議選では大敗したとはいえ、安倍政権は依然、国政では独占状態。 「一般人は含まれない」という定義したようで全く定義になってない「テロ対策措置法」では、これから一体、どんな人を「一般人」とみなしていくことになるのだろうと。 もしかして、安倍さんのイエスマン、イエス国民以外は、すべて「こんな人」になってしまって、取り締まられるなんてことになるんじゃないかと危惧してしまいます。 なにしろ「こんな人」ですからね。 立候補者自身が、自分の反対勢力に、「こんな人に負けない」と云うのはまだわかりますが(それでも、それが代表者となろうとする人の言葉とは思えませんが)、そういう反対勢力も当然含めた一国の代表たる首相が、自分に反対されたからと、「こんな人」なんて扱い、してはいいはずがありません。 さらに、その発言に全く問題はないと言ってのける周囲も、もう政権独占が長すぎて周りが見えてない感じです。 こんな調子で、憲法改正についても「丁寧な説明をする」と言ってはいますが、それは、安倍さんのやり方に反対する人や意見は対象になってないってことに思えます。 この時は、大人の対応としては、無視して演説を続けるだけでよかったはず。 それができなかった器の小ささも、評価できません。 こんな器で、憲法改正なんてやられたらとても怖い。
2017年01月30日
ダゾーンを見はじめてからずっと、Jリーグのお偉方は、DAZNを見たことあるのかしら?もしかして、「金色夜叉」の有名な一節、「ダイヤモンドに目がくらみ・・」と同じような経緯でスカパーからダゾーンに切り替えた?と疑問に思っています。 ダゾーンの記事がネットニュースに出ていました。 Jリーグに巨額のお金が入って、リーグや各チームが潤っても、それを見る人が満足できないで、将来があるのかなあ? ダゾーンがJリーグに巨額のお金を出せる理由は、Jリーグを世界各地の賭けに利用するために、スカパーより1秒早い情報を得るためだそうですが(これは別ソース)、年月をへるごとによりサッカーファンに寄りそってきたスカパーとは、立ち位置がまったく違っているのですね。 賭け事ってのは莫大なお金がうごくものでしょうから(この場合、サッカーくじのような、サッカーに関心がある人間が賭けるものとは違って、半丁博打のような純然たる賭け)、契約期間中、Jリーグには確実にお金が入ってくるでしょうけど、それでいいのか?とも思います。 固いこと言えば、「健全な青少年の育成」ってのも、Jリーグの目標なのではないかしら?
2016年12月03日
天皇陛下の退位について、専門家の間で、こうも賛否両論になるとは想像してませんでした。 おそらくは、ここで生前退位を認めると、将来、政治的に天皇の地位が利用される危険があるということもあるのでしょうが、陛下が生前退位を望まれているのなら、多少事務処理に時間はとられても、意向に沿った形でスムーズに事が運ぶものかと思ってましたから。 でもそんなに難しいなら、いっそのこと、世間の会社勤めと同じで、定年を設定すればいいのに、とも思ったりします。 年を取れば、それまでと同じように働く(という言い方が適切なのかどうかわかりませんが)のがつらくなるのは、どの人だって同じことですもんね。 定年が来れば、それで、役目は終わり、あとは悠々自適に暮らしていただく、それでよさそうに思うんですけどねえ。 ついでに言えば、政治家だって、どんな役職だって、定年や任期が必要だと思います。 同じ人が長く同じ地位に就くのは、いい時はいいんですが、だいたいそのうちにダメになるのが世の常、自分にとっても周囲にとってもあまりいいことじゃない。 ましてや、決まってる任期を引き延ばすなんてのは、周りがそう要求しても、自分から身を引くくらいでないと。 だいたいにおいて、惜しまれつつ去るという形がベストなんですよね。
2016年06月29日
英国のEU離脱か残留かを問う国民投票は、もう一度やり直し投票を求める声も上がったり、人種差別を呼んだり、他所の国のことながら、大変だなあと思います。 やはり、過半数で可決されるというのは、今回のようにほとんど五分五分で終わった場合、残りのほぼ半数はそれに反対だったのだから、後々の運営が難しくなりそうです。 やはり、大事な事を決めるのは、3分の2の賛成は必要だと思いました。 そしてそうならないなら、どちらかの意見が3分の2を占めるまで、時間をかけても討論を繰り返し、投票をやり直す。 後悔しないためには、それがベストなきがします。 今回の騒動で考えさせられたのは、英国に限らず、日本だってどこの国だって、外から冷静に見れば分かることでも、自国内での目先の宣伝や世間の流れに、あまり考えずになんとなくのってしまったりすることって、結構な数あるんじゃないかということです。 で、今回のように、後から、こんなつもりじゃなかったという後悔がでてくる・・・きっとどこの国でもあります。 でもそれじゃあ遅すぎるんですよね。 やはり民主主義の根っこは、1人1人が責任をもって、将来を考えることなのだなあと改めて思います。 たった一人ずつだけど、それが集まるんですもんね。
2016年06月26日
今、期日前投票してきました。 英国のように、非常な接戦投票であれば、1票の投じようもあるのですが、日本の政治は、一党独裁ですから、もう決まったようなものですけど。 ただ、そういう状況でも、1票の投じ方というのは、それなりにあると思うのです。 よく聞かれる、「どこにも入れようがなかったので」とか「どうせ一票を投じても投じなくても同じ結果だ」という意見の方は、もう少し、やり方を変えると自分の票を有効にできるかもしれません。 積極的にこの人(党)に入れたいという場合は問題無いわけですが、そうでなく、入れたい人(党)はないけど、という場合は、逆に、この党には入れたくない、政権を握ってほしくないという人(党)が一番嫌がる対抗馬に入れることです。 そうすれば、支持する人(党)ではなく、「この人(党)は支持しない」という自分の意思を伝えることができます。 もちろん、この人(党)を!と言える人や党が出てきてくれるのを待ち望んでますが、残念ながら今日も私は、そういう消去法の投票の仕方で投票してきました。
2016年05月14日
熊本地震からまだ1ヶ月なんですね。 毎日のように震度3とか4が起こっているので、とても長く感じられます。 でも1ヶ月の間、相変わらずの避難生活を余儀なくされておられる方が沢山で、状況は地震直後とそんなに変わってない感じ。 避難の様子だって、テントでとか車中泊でとか、ちっとも東日本の時とかわっていません。 そんな時でも、中央では、政治家の金遣いがどうのとか、選挙がどうのとか、海外訪問とか、オリンピックがどうのとか。 東日本大震災の時、こちとら大変な目にあってるってのに、中央では、相変わらずの与野党攻防などやっていて、早く元に戻りたい地元との温度差に、イライラさせられることしきりだったのを思い出しました。 あれから5年以上経ったのに、変わってないのは避難の仕方だけでなく、政党は違えど、政治家のやることも進歩していません。 熊本の方々は、家は無い、避難生活は極限、水がない、健康が心配、復旧のめどが立たない、なにも進んでない中、テレビでは「地震活動はは相変わらず活発」という多分もう耳にしたくない言葉を繰り返す。 そしてもうすぐやってくる梅雨と暑さ、参っていると同時に、相当じれてらっしゃるんじゃないかと思います。 こんなときいつも、中央政府って、見に来るくらい、実際は何もできない。 食料が手に入る今は、はやくそれぞれの家の診断を行って、家を建て直すなり、修理するなりするのが一番必要だと思います。 そんなこと言ったって、まずはこれこれをしないと・・みたいな悠長なことは外から見た人が言えること。 仮設でもいい、あるいは、県外に出られるなら県外のホテルでもいい。 車や体育館やテントは、1万人もの人が1ヶ月も住むところじゃないのは誰が見ても明らか。 オリンピック、やめませんか? 頑張ってる選手が可哀想でしょうか? 別に日本でやらなくたって、ほかの国でやれることです。 ほんとうは、オリンピックを目標としている選手の方々が提案してくれると一番いいんですけど。 被災地のためというスローガンを掲げてれば何をやってもいいわけじゃない。 これからそこにつぎ込まれるお金、オリンピックのために値上がる建設費、少なくなる人手、すべて熊本に回してください。 東日本大震災の時、オリンピックは関係ないと政府は言ってましたし、テレビもそう報じましたから、世間もそう思われたと思います。 が、実際に地元で見ていて関係無かったとは、とても思えません。 家の修復は5年経った今、あちこち行われるようになりました。 避難者が増えて対応が増えた病院の増設も、建設中あるいは、まだ敷地だけ。 熊本がそうならないことを願ってます。 それに復興が長引くと、差別が生まれ、人の心が荒んでくるんです。 そういう悲しい経験もしてほしくない。 できるすべてのことを熊本に注ぎ込んで、その他のことはそれからでいいのでは?
2016年03月11日
天皇陛下のおっしゃることにはいつもメッセージを感じます。 それは”平和”であったり、”社会問題”であったり、今日の場合は被災地に寄せる思いであったり。 天皇は政治にはかかわらないことになっていても、メッセージは伝わるものですね。 それがいつも、なるほどと受け入れたり考えさせられるものであるのもお人柄を感じさせます。 それに比べて、政府ってのはどうしてああ、東京目線なんだろうとあきれます。 福島市に住んでいれば、あちこちに寒そうな長屋の仮設はのこっているし(5年も住めるところじゃない!)、除染はまだまだ進行中。 福島市では住宅の建設もちらほら始まりましたが、ようやくという感じ。 浜通りに行けば、まだ5年前のままの荒れた家や土地、あるいは、立ち入り禁止区域やようやく禁止を解除されたけど生活感のない町が広がっているのだと思います。(最近になっては行ってないので、テレビで見た限りですが変わってなさそうです) 相変わらず風評被害もある。 事故当時、放射線の被害と避難とどちらが身体的心的ダメージが大きいかを考える余裕もなくまずは避難したあと、その避難先から戻って来られない人もいまだいます。体を壊したり、家族が離れ離れの場合も。 それで復興が進んいでいるなどよく言えたものです。 5年間の変化さえ感じられない人や場所が多くあるのに、今年を東北の観光元年にするなどとは呆れてものもいえません。 政府に求められるのはエンタテイメントでなく、生活再建です! お金を出せばいいってもんじゃない、相手の立場に立って考えようとする姿勢です。 5年間、何してたんでしょ? 東北の人って我慢強く気持ちをうちに秘めてしまうので、オリンピックの聖火が復興地を通る(通るなら、荒れた土地や原発、人の戻らない町だわ!)なんて話にも、日本全体が喜んでいるならと、笑顔で迎えるはずです。 でも、失礼な話には変わりありません。 これが、東北でオリンピック開催というなら、復興の意味がありますが(それはそれで迷惑ではありますが)、東京オリンピックのおこぼれを”下さる”のは、例えれば、交通事故にあって入院してる時に、加害者が海外旅行にいったおみやげを持ってきたようなもの。 はっきり言って、やってることが信じられません。
2016年02月13日
朝ローカルラジオを聞いていると、先日の例の女性環境相の「1ミリシーベルトに科学的意味は無い」について、「怒りを通り越して悲しいですよね」と話していました。 福島に住むものの気持ちを考えてないという意味では、ほんとに悲しい。 ただ、1ミリシーベルトに科学的意味は無いというのは正しくないかというと、正しいと思います。 年間1ミリシーベルトというのは、事故以前から日本にあった基準で、諸外国にくらべ、一段と低く設定されていたはず。 (ただ、実際には、問題にされなかっただけで、事故前からその基準を超える地域は日本国内でもありましたし、今もあります) 当時政権を担っていた民主党は、当初、20ミリシーベルトに設置しようとしたんですが、福島県民や環境保護団体に押されて、1ミリシーベルトに、というのが実情だったと記憶しています。 そのために、今も続いていますが、除染がいたるところで行われ、その膨大な料の汚染土をどうするかという二次問題も出てきて、それをすべて福島になどと言う、それこそ絶交したくなりそうなことを言っているところも出ているわけです。 あのころいろんな専門家のお話を聴く機会がありましたが、放射線の事故があった場合は、まず、実現可能な数値に設定する、それを達成したらまた少し下げるというやりかたをするのだといっておられたとおもいますが、福島の場合、民意に押された形で、一気に20分の1に下げたんですよね。 民主党には、強引に押し通すという力はなかったですから、もし今の自民党のような絶対多数の与党があの頃政権担当していたら、違っていたかもしれません。 ただ、当時は、日本国中がパニックになっていた時ですから、民主党のやり方が悪かった一方的に責めるのはちょっと酷。 責められるべきとあえていえば、そのパニックを利用し、被害を誇張して利益を得たり、ちゃんと勉強もしないで興味本位でかきたてたり、自分たちの主張に利用したりした、一部の故意の人達でしょうか。 そのためにいまだに福島は風評被害に苦しみ、故郷に帰れない人たち、分断された人たちがいるのですから。 環境相の言葉が1ミリシーベルトになった経緯から説明してのものだったら、少なくとも福島県民なら思い出したかもしれません。 ほんとうに記憶って、気づかぬうちに薄れてくるのでしょうね。 それがまた”忘れられる”という人間にとって必要な部分でもあるのですけど。 でも再度ですが、絶対にやっていけないのは、それを利用して都合よく事実を解釈してしまうこと。 この事故に限らず、私たちはよく、そういうことやってしまいますけど、あくまで真実を語り継がなければいけないですよね。 特に、これを絶対多数の与党や民意がやってしまうと危ないことになってしまいます。
2015年11月22日
戦争やテロや反目や差別や、世界や国内の各地でおこる争いごとでは、それ相当のいわゆる”目には目”的な、やられたらやり返す対応策はすぐに思いつくし、手っ取り早いし、あまり疑いを持たないことが多いですが、それ以外の、もしかしたらもっとずっと効果的な手段がありそうなきがします。 もっともその渦中にいれば、並大抵でない哀しみや怒りで冷静になれるはずはないし、今ある脅威に対してそんな余裕はないと反対されそうですが、だからこそ、なんとか考えようとすることが大切なように思います。 江戸時代の仇討ちのように、やられたら次はその子孫が相手を見つけてやり返す、そこでまたやられたほうの子孫がまた相手を見つけてやり返す・・・昔なら情報も交通手段も多くなく、武器もせいぜい刀くらい、幸いなことに仇討ちには限界があったでしょう。 でも、武力に頼れば武力で戻ってくる、その繰り返しは、情報も、交通手段も、武器も、恐ろしいほどに発達した今の時代には、かなり危険なことです。 戦い続ければ、地球に一人の人間もいなくなるまで続く可能性だってなくもないですもんね。 恐竜が滅びて哺乳類の世界になったのは、自然の脅威でしたが、人類の場合は、文明の発達についていけなかった精神の至らなさによって自ら滅んでしまうかもしれない。 最終的には、そちらのほうがよほど怖く悲しいことですもの。 パリでは、身近な人を亡くしたり間近で起こったショックにも関わらず、憎しみはあげない、いつもどおりに生活を楽しむことが一番の対処法だという流れもあるときいて、さすがフランスだなあと感動しました。 報復はすぐに思いつきますけど、どんなときも気持の余裕を忘れないことは、それよりずっとずっと難しいけど大事なんだなあと。 尊敬します。 目的のために選ぶべき手段は、1つではない、いつもいくつか見つけ出せるものだということを知っておくことは、そいういときに役立つかもしれないですね。 日本では、沖縄の基地建設にたいして、政府は、これしかないと追い詰めている(一応パフォーマンスはありましたが)のを見ていると、なんと気持ちの狭いやり方なんだろうと思ってしまいます。 あれだけ県民の選挙で選ばれた沖縄県政府が反対していることを、あたかもそれしか方法がないようにごり押しするのは、国側の怠慢です。 今の沖縄は、ありがたくないごみステーションの場所が自宅玄関横に当たった気の毒なお家のようなもの。 お宅もゴミ捨ててるんでしょ?反対するのはあなたのお宅だけですよ、さあどうする?と迫られて近所付き合いの手前もあるしと窮しているような感じ。 第一、何かをアセスするときは、当然、代替案がいくつか用意されるはずなのに、未だ日本では、見掛け倒しのアセスなんでしょうか。 でも沖縄のことにしても、「それしかない」といわれると、不思議なことに、私たちは、そうか、それしかないのかもねと、意図的にしても無意識にしても思ってしまうふしがあるように思います。 でも、ちょっと頭をかしげて、はたしてそうか?と思い直すのも、必要なんじゃないかしら、後悔しないためにも。 誰もが納得できる世界ってのは夢物語かもしれません。 でも、少なくとも、それに関わる多くの人が1%でも多く納得できる方法を見つけえだすことは、世界のために、ひいては自分や自分の家族や友人のためにも大事です。 一部の人や地域の不満を全体の圧力で押し込めてしまうのは賢いやり方じゃないし、民主主義ともいえません。 私達も常に、私達がやっていることが公平なことなのか、正しいことなのか、他にすべはないのかを自問する必要があるんでしょうね。 そうでないと今の世界、軽はずみに大きな誤解や事実無根の差別を招いたり、誰かを窮地に追い詰めたり、前の戦争のように、多くの日本人が本意不本意にかかわらず、戦争という大きな流れに従ったような、悲しい時代にだって舞い戻らないとは限りません。 後々後悔するような大きな流れを作り出していた、なんて取り返しの付かないことになっては、結局人間は自分たちを滅ぼすための文明を発達させた愚かな生き物だったってことになっちゃいますものね。 もし創造主というものが居るとしたら、何やってんだ、こいつらってことになりそう。
2015年09月04日
山登りの時によく、やめるのも勇気という言葉を聞きますけど、客観的に考えるとそうは思っても、自分がそういう状況になったときにやめると決断するのは、なかなか難しいのではないかと思います。 オリンピックも、”おもてなし”なんていうはやり言葉を作った開催国立候補のときから、まるでパーティのような盛り上がりでスポーツ選手だけでなく、いろんな人を巻き込んで、お祭りのようにやってきたのに、ここに来て、競技場やロゴや、行き詰まりがでてきました。 まあ、山登りでも行事でも、やろうとするとそれなりに障害はでてくるものでしょうが、今回のオリンピックに関しては、そこまでしてやるかという思いの方が私は強いです。 今、オリンピックを開催しようとするのは、風邪をひいたまま、予定通り海水浴にいこうとするようなもの。 日本は、健康かというと、そうじゃないでしょう。 少なくとも、福島に住んでいるとそう感じます、健全じゃない。 どうしても、お祭りをやる意義を見いだせません。 東京開催を願うスポーツ選手や純粋にそれを願って応援してきた方々に罪はないと思ってましたが、今は、それに関わった方々すべてに、そのこと考えてほしい、その責任はあるんじゃないかと思ってます。 やめることは恥ずかしいことじゃない。 何とかやろうとするだけでなく、やめるという選択肢もあることを思い出してほしいです。 追記ですが、やめるということに関して言えば、安保法案はもっとそうですが!
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