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コンサの応援は、岡田監督のころから。 はじめは頂き物のSS席で。 すぐに、選手とサポと皆が一体になる楽しさにはまりました。 コンササポの温かさに惹かれて、次第にS席からSBへ、そしてゴール裏へと移動。 ついでに、すみかまで移動してしまったので、アウェー中心となった今は、少ない人数で団結する楽しさを味わっています。 困るのは、旦那もサポなので、グッズを買うのも、遠征するのも、コンサに関しては誰も止めてくれる者がいないこと。 札幌にもなんとか年数回里帰りして、ホームの雰囲気をうれしがってます。
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2012年03月27日
先日、アメリカの友人2人からメールが来ました。 ちょうど「”福島以外の”がれきの受け入れを・・」と政治家が全国に呼びかけていたころで、なんとも堂々と福島は差別されたものだと、かなり落ち込んでいた頃です。 おそらくは、そう括ることで、瓦礫の受け入れが進みやすくなるだろうという目的ででしょうけど、「”線量の少ない”がれきの受け入れを」というならわかりますが、これじゃあ、県境に大きな壁でもあって、福島はどこであれ一様に放射線に汚染されている(逆にいえば他の県は一様に汚染されてない)と公言したようなものですものね。 こんなところから差別や風評被害は始まります。 言われている方にとっては、どんなにかグサッとくることか。 言葉の力は、大きいです。 話がそれましたが、いつもそんな誰かを求めている時に、ほわっと包んでくれるようなメールをくれて、ともするとささくれだって収まりようのない気持ちを慰めてくれます。 震災から1年経ってということもあったでしょうが、なんでこのタイミング、わかるんだろう? ここで見栄はっても仕方が無いので、震災直後はたしかに、福島は、東北は、日本の一部だった、でもいまは特に福島は日本じゃないと感じることがある、と返事したら、overwhelmingと返事(訳しにくいのでそのまま)。 でも、その話はそれっきりで、以来、アメリカにいた頃に共通の興味だった(もっとも向こうは、それを仕事としていますが)海洋生物のことに話は移って、つい昨日は、最近撮ったというすごくエキサイティングな写真を送ってくれました。 もう見た途端、「ええ~っ、ウッソ~!」ってなしろもの。 (旦那に話しましたが、興味ないので「ふうん」となんとも拍子抜け。なので、ここでも詳細は書きませんが。) で昨夜は、チャット状態で、メールのやり取りをしてました。 久々に、現実を忘れきって、興奮して、あとはぐっすり眠りました。
2012年03月06日
もう1年経ったか、と思うと、時が経ったのがはやく感じるんですが、あの頃、新しく福島にやってきた方が、もう随分と昔からいるような気がするのは、やはり1年が長かったということなのかもしれません。 ありすぎるほど色々あったし、まだ現在形のものもあるし。 正直、この1年は、精神的にとても辛かったです。 当初は地震や原発事故そのものだけでしたが、やがて、それによって誰もの気持ちにささったとげが、いろんなところでささって別のとげを生んでいくのが目に見えてきて。 はじめは外国から驚嘆・賞賛されたようないわゆる”日本的”な、秩序と節度のある行動が表だっていましたけど、長い間のストレスにはやはり耐えきれずに、その下にあったエゴが姿を表してきたみたいに思えます、福島でも、県外でも。 人によるのはもちろんですけど、福島から距離が離れるほど、パニックの度合いが大きいように感じるのは、とても不思議です。 去年参加したシンポジウムで、韓国の研究者の方が、韓国でも放射線による影響が出るのではないかと、パニックになっていると話しておられましたが、それを日本人が聞くと、ちょっと苦笑いしてしまうのが、福島と県外の関係に似ているのかもしれません。 EUの、福島を含む11都県からの食品の輸入を規制する措置なんかもそんな感じでしょうか。 今でもとても共感して目を向けてくださっている方もおられるのはわかっていても、井上ひさしさんが書いた「吉里吉里人」という小説のように、福島も独立して、自分たちで作ったものを食べ、自分たちで生活していければ一番平穏に暮らせるかも、と思うほど、ああしろこうしろという圧力はかけるが、実際にこちらが救いを求めて手を出すと知らん顔の外野には、いつも傷つきます。 すべてを政治のせいにするのも、ようするに、人のせいにしていれば自分は逃れられるという心理なのかなと、ひねた考えも浮かびます。 そしてそうか、福島は必要ないのか、と。 具体的に思っていることは沢山あっても、ブログに書こうとしてもなかなか手が動きません。 日常の小さなとげから、ニュースなどで見るような大きなとげまで、ひたすら耐えるのみと、頭の中で何も思わない、考えられないように、音楽をかけまくっていた頃もありました。 普段結構ボケっとしている私にしては、珍しく神経質になってるかも、と自分でも思いますが、どうしようもない。 それにしちゃ、書いてたじゃん?と思われるかも。 でも、書くのも結構辛かったんです。 いままでと同じ感じで書きたいなと思って書くと、ほんとは違うのにと、ほかのブロガーさんとのギャップに落ち込むこともありました。 身を削る思い、というとオーバーかな。 それでも書かないと、という思いはありました。 これからも書いていきますが。 いま、福島に住んで、どう考えているかを伝えるのは、私を含めて福島の人間がやるべきことだと考えています。 同じ福島に住んでいたって、さまざまな思いや考えがあるはず。 ちょうど、学年末、新学期の頃だからか、いまの福島は、避難してくる人、避難する人、ちょっと見ると矛盾した2つの動きが同時に起こっています。 そして、福島県人と他の地域の皆さんとの間の意識だけでなく、避難している人と、残っている人の間にも、気持ちのズレが出てきているのは、嬉しくない事実です。 「逃げる」と言う言葉で避難する方のことを表現されることがあります。 はじめて聞いた時にはびっくりしました。 その言葉を使う人の気持ちには、もう避難先の福島県人は仲間じゃなくなってるのかも? まるでクスリの副作用のように、予想のつかないとげが、時間が経つに連れ、出てきているように思います。 綺麗ごとは程遠い、福島にいれば「絆」なんて言葉は、別の世界から満足してみている人たちの言葉だとしか思えません。 悲しくて、その言葉は使えません。 今日もボラ仲間と話していまいた。 彼女は、当初は放射線のことで落ち込んでいましたが、いまは、元の明るい性格にもどっていて、「もう何もこわくないね。根っこさえちゃんとしていれば、他のことはどうだってよくなってきた。」と話していました。 原発事故の風景を見てももう、涙もでないけど、津波で被災された海沿いを見るのは、どうにも忍びない、そんなことも話していました。 事故当初の病院の玄関は、マスクを付け防護服をきたお医者さんや職員が、ガイガーカウンターで患者さんの被曝程度を測定をしているという異様な光景でしたが、いまの病院は、震災前と変わらない老若男女の患者さんがみえている、どこの病院にもある普通の風景です。 もちろん、お腹の大きな”もうすぐお母さん”も、生まれたてで湯気が出てそうな可愛らしい赤ちゃんも、今も変わりなく来られてます。 福島は、生きてます。
2012年02月05日
昨日の続きみたいなものですが、今、福島で一番影響の出ているのは、成人病の増加じゃないかと思います。 長い避難生活で、持病の症状が悪化したり、あるいは検診で、今までなんの異常も示さなかった思っても見なかった病気を知らされたり。 そう言う話をこの頃になって耳にするようになりました。 ずっと前に書きましたが、例えば、避難所で出だされる塩の利いたお握りとかお味噌汁、仮設住宅でカップ麺やできあいの食料を続けてとっていれば、高血圧や糖尿病の人には良くないはず。 脂肪分の多い揚げ物や、野菜不足、運動不足で、不健康になってしまう人も少なからずいるはずです。 若者なら、健康を取り戻す事もできるでしょうが、避難しているうちに、足腰が動きにくくなって、もう元の家には戻れそうになくなったという方が、まだまだ”お年寄りというには若い”ほどの方にもおられるとか。 そう言う話を聞くと、放射線の影響を避けるために避難するのは、原発がこれ以上は悪化しないと分かった時点で、やめたほうがよかったのでは?とも思います。 結局、放射線による悪影響は、そういう二次的なものがほとんどのように思います。 少なくとも、幼い子供と親御さん以外は、故郷に戻った方が良かったのでは? 昨日の野鳥のように原発のすぐ近くは無理でしょうが、今からでも、川内村のようにはやく故郷に戻った方が、健康のためにはいいような気がします。 今まだ、東電による賠償は始まったばかりですけど、お金で表せない被害、はっきりとその影響だとは言えない身体的・精神的な健康被害、家族の愛や形の崩壊、交友関係のダメージなど、賠償請求できない被害はそれこそ人それぞれにたくさんあって、これからもそれらは続くと思います。 実はそういうことのほうがずっと辛かったりします。 ほんとうに、東電は、とんでもないことをしてくれたものです。 それだけは確かです。
2012年01月29日
ブログを書いているのは、自分の乏しい記憶力を補うためのものでもあるんですが、実は、その書いたこと自体を忘れたらどうするの?という肝心な所もまた、すっかり忘れておりました。 そうなんです。 結局、何か書き留めても、書いたことを思い出す記憶力がいるのですよねえ。 で今、別のことを検索していて偶然、4年前に書いた原発についての過去記事を見つけました。 書いたことさえすっかり忘れてましたが、へえ、こんなこと書いてたんだ・・・。 やっぱりメモとしては役立ってないんですけど。
2012年01月20日
コダックが破産申請なんですねえ。 あのコダックが、ってびっくりですけど、考えたら、もうこのデジカメの時代に、フィルムなんて使わないんですよね。 コダックには、船の上から写真を撮っていた時期に、ずっとお世話になっていました。 そのころ、コダクロームが一番出回っていたと言うのもありますが、色の出具合が、フジよりもコダックの方が明るくてきれいだったんですよねえ。 だから、毎回、断然、コダクロームでした。 ASA400で、望遠を使って、シャッタースピードを速くして撮ると、海にすむいろんな生き物が生き生きと映し出されて来ました。 毎回、撮るたびに、写真ができあがってくるのも楽しみで。 できあがると、次に船に乗ったときにそれを見ながら、皆でまたわいわい言い合って。 コダクロームについての思い出は、楽しい思い出ばかりです。 今も、そのときの写真がたくさん、残っています。 ニュースを聞いて思わず、ポールサイモンの「コダクローム」の歌なんかも思い出して、ちょっとしんみり。 (カメラはニコンじゃなかったですけどね。)
2012年01月17日
「震災とともに歩んできたチーム。(東日本大震災の被災地も)必ず復興できると信じて前を向いて歩んでほしい」 ヴィッセル神戸の和田監督の言葉ですが、震災を経験されたチームの言葉はそれだけ重みを感じます。 17年前、震災をうけた阪神地域が、今もまだ問題も残しながらも、しっかり復興の道を歩んできたのは、先輩として頼もしく、大きな目標となります。 和田監督(ってあまり存じ上げませんが。すみませ~ん!)、ありがとうございます! 東北に住む一員として。 そうだ、福島ユナイテッドも、これから17年たったころは、Jリーグにいて、「あのころはまだJFLを目指していましたが・・」なんてコメントしてるといいな。 あ、Jリーグにあがるのは、17年も待たなくていいんだよ! 念のため。
2012年01月08日
実は・・と改まるほどでもないことなんですが・・札幌にいる頃に、甲状腺に腫瘤がみつかって、毎年札幌に来ているのは、その当時からお世話になっている病院で定期的な検査をしてもらうためでもあります。 (もっとも近年は、もう一つの大きな目的~言わずとしれた~のほうがメインになりつつあったりしますが!) お優しい皆さんは、あら気の毒にとか思ってくださる? いえいえ、んな必要はありません。 ということを本日はお話したくて。 甲状腺の腫瘤というのは、害も含めて、なにも自覚症状がありません。 だから私も、いつからあるのか分かりません。 もしかしたら子供の頃からあったのかも。(家系もあるし) 見つかったのも、おそらく、ほとんどの方の場合と同じく、別の検査でたまたまです。 もしその検査をしてなかったら、一生知らないままだったと言うことも十分考えられます。 細胞診をして悪性か良性かをみてもらうときに、先生が言った言葉。 「信じてもらえないかもしれませんが、もし悪性(つまり癌)だったとしても、甲状腺の場合、たいしたことないんです。」 あ、そうなのね、と思いました。 おかげで当時、パニクったり気を落とした事もありませんでした。 結果、良性だったわけですが、いまだ、病気だとさえ思ったことがありません。 ただ毎年、急に大きくなってないか、増えてないか、検査するだけ。 そしてここからは福島の話。 今はほとんど放射線関係の番組は見ないですけど、昨日、たまたまつけたテレビで、福島から避難(札幌に?)されてる母子の取材があってました。 お子さんに甲状線腫がみつかったということで、お母さんが、事故の頃外で遊ばせたのがいけなかったのかと、悔やんでらっしゃるところでした。 番組では、お医者さんは「いぼのようなもの、心配しないで」と言ってらっしゃいましたが、お母さんにしてみれば、いぼでもお子さんにあるというのはつらいことです。 でもそれをコメントする番組側の人間が、一緒に悩んでいるのを見て、同情はこのお母さんをいっそう心配にはさせるけど、一時の安心も与えないよなと思いました。 多分テレビをみていた福島県人にも、暗澹たる思いを抱かせたのではと思います。 コメントによって、このお医者さんのせっかくの診断が台無しにされたことにもなります。 極端に聞こえるかもしれませんが、それくらい、今の福島や県外に避難されてる方々の放射線に対する不安は大きく敏感で、そのためいとも簡単に、危ないという方向には向かってしまうんです。 この番組のように、福島の外で作ると、地に足がついていない事が多いです。 それは、仕方のないことでもあります。 (福島の地に足をつけて同じことをやってるどこかのローカル紙は論外!) ただ、もし自分がそこにすんでいたらどうするか?こういえばどんな風に感じるか?と置き換えて考えるくらいは、倫理観として持っていて欲しいところ。 芸能人のゴシップじゃないんですから、関心さえ集めればいいという姿勢はこの際、すっぱりやめてもらって。 福島には、ここに住んで懸命に放射線の実態について安心してもらおうと活動している方々(研究者、お医者さん、ローカル局など)もおられるのに、ようよう明かりが見えたと思っても、危ないという一言で、その活動はほとんど無になってしまいます。 階段を昇っては落ち、昇っては落ち。 そういうことをしていると、だんだんと、安心してもらおうとがんばる気持ちって、薙いでしまわないか、心配です。 でもそれでは福島が、虚につぶされてしまう、それは許されない。 でもまた、昇ると容赦なく押し寄せる大きな波。 そういう矢面(”危ない”という方々と違って、まさに矢面)で活動をされている方々に感謝すると共に、不必要で不親切な外圧には負けまいと、私は思います。 負けますまいや!福島県人。 ほかの病気と同じように、どこにすんでいたって、一定の割合で、甲状線腫のある人はいます。 実際、甲状腺の検査なんて普通はしないので、福島県の子供を対象とした検査で異常が見つかると、それが正常な割合で起こったものでも、特別なもののように取り沙汰される可能性は大いに考えられます。 科学的な理解を抜きにして、情に訴えることが先走っている報道は、福島で生きている人間には害になりかねません。 全国で見ても、やっぱり福島はと、風評被害をさらに強めていくことになってしまいます。 ほんとうは、数値と知識さえあれば、ほかは必要ないんですよね。 福島に必要なのは、悲劇のヒロインを作る応援じゃなくて、自立するための支援です。
2012年01月07日
もちろん、尚志を応援してました。 前半は果敢に攻め、積極的にシュートを打ててましたが、1点入れられてからは、相手の四日市中央工がリズムにのってきて、ちょっと自分たちのペースを取り戻す隙を与えてもらえなかったですね。 残念ですが、1点はかえせたし、精一杯やったんですから、これで良し! ところで福島というと、今は、形容詞のように震災、原発事故をつなげて伝えられますけど、それ自体は伝えて欲しいんですけど、それをドラマ化してしまわれることにはどうも、抵抗を感じます。 映画じゃないんですから。 2時間で終わらないんですから。 涙、涙の感動の物語でなく、生きてるうちに終わるかどうかも定かでない(たぶん終わらない)、泥臭い実生活です。 そうそう、もういい加減、「がんばろう福島」もやめてほしいです。 いつまでがんばればいいのさ?と反論したくなります。 こういうスローガンって、気持ちを前に進めるためには大事。 いいかげん、更新しないと~!
2011年12月30日
今年ももうすぐ終わり、いろんなことありました、良いことも悪いことも。 どちらにしろ、今年は極端が多かったです。 激動の2011年というところでしょうか。 この一年で考えたことの1つに、肯定し続けることの難しさと、それを否定することのたやすさがありました。 サッカーでも、仕事でも、放射線の問題でも、生き方でも、いろんなことに当てはまります。 否定することはたやすい。 根拠はなくとも、感情に訴えればいい。 けれど、肯定には、理性が必要です。 これが、なかなか前にはでてきてくれない。 人間は感情の生き物ですものね。 でも、まず否定する前に、いろんなことをいろんな方向から長い目で冷静に理解していこうとすることは、ベターな選択をするために決して無駄にはならないと思った1年でした。 それに、否定することで、誰かが大切にこつこつと築いてきたものを一瞬にしてこわしてしまうようなことをすることが、人と人のつながりで成り立つ世界で、人間的な行動とは思えないという理由もあります。 今年の漢字じゃないですが、今年は、人の人の”絆”もたしかに感じた年でしたが、同時に、逆にもろく崩れかけている部分も感じた年でした。 ここから先は31日分。 今日になって読み返しましたが、どうみても言葉足らずですよねえ・・・。 う~ん、表現に困ってます。 要するに、なんちゅうか・・・。 このままきれいにまとめちゃいけないって思いが強いです、今年は。 これから、行く年来る年なんかで、「被災地は・・・」なんて風景もでるのでしょうが、行く年も、来る年も、雪も、雨も、お正月の晴れ晴れした風景も、何も納めてはくれません。 おさまるようにみえるけれど・・・。 福島では今、例年にない、いろんな複雑な風景が見えます。 ちょっと先行きが心配な感じです。
2011年11月29日
こんな記事読まされたら、福島県人はたまったものではありません! 原発事故が起きた頃は、「人災だ」という言葉にも、ちょっとスタンスを置いていましたが、状況が分かって来るに連れて、人災以外の何者でもなかったということがどんどんはっきりしてきます。 ひどい。 確かに、当時、うちでもテレビが倒れて見ることができず、ラジオで聞く大津波が・・という話も、ここまでの状態とは想像だにできませんでした。 でもそれは個人の話。 人の命に関わる安全第一の仕事に携わる場合は、最悪の時を想定しておくのは当然です。 状況が明らかになるに連れ、こんなんでよく原発やろうなんて思ったなと思うようなことばかりでてきます。 なんだかこの認識不足といい、いまだに第二原発は爆発してないけど、なぜ放射線が放出されたのか分からないなんてのたまっているのを見ると、怒りというよりも、悲しく、悲しく、ひたすら悲しくなります。
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