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ブログタイトルは「真栄パパの思い出語り」から2014年2月に「習慣コンサ」に改め、さらに2022年1月1日から「毎日コンサ」に改称しました。「毎日が日曜日」なので、毎日、コンサドーレのことを考え、書いていきます。 気持ちだけは熱いですが、体がついていかない老年(2018年、還暦に突入)のぬるサポです。 北空知の秩父別町生まれ。札幌市清田区真栄に自宅があります。
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2006年09月03日
1998年のワールドカップ後、コンサドーレがJ2に降格が決まった12月5日以後、私の中で「コンサドーレ>日本代表」となった経緯は以前に書いたことがあります。今回は先日、コンサ出身のMF山瀬功治(在籍2000-02年。現横浜F・マリノス)が日本代表入りしたのを記念して、コンサにまつわる日本代表選手を振り返ってみます。 1996年のチーム発足時、日本代表歴のある選手としてDF平川弘がいました(日本代表としてはFWとDFの両方で出場している)。残念ながら、平川は半年ほどで現役を引退、現在はサッカー解説者として活躍しています。その後も元日本代表の加入は結構あります。キャプテンも務めたDF名塚善寛(在籍1999-2001年。現コンサドーレ札幌U-12コーチ)、FW高木琢也(在籍2000年。現横浜FC監督)、FW小倉隆史(在籍2002年。現サッカー解説者?)、MF酒井直樹(在籍2002-03年。現柏レイソルU-12監督兼U-10コーチ)、FW森山泰行(在籍2002-03年。現FC岐阜)、FW小島宏美(在籍2002年。現FC岐阜)。いずれも加入が決まった時は大活躍してくれるものとして期待や妄想が膨らみましたが、実際には故障を抱えていたりで往年のパフォーマンスを発揮できない選手が多く、シーズンを通して活躍したのは名塚と小倉ぐらいでしょうか。 さて、コンサが育てた選手としては、まずFW吉原宏太(在籍1996-99年。現大宮アルディージャ)です。忘れられないのはシドニー五輪のアジア1次予選で大ブレイク、ハットトリックも決めました。相手DFがザルなのか、味方のパスがいいのか、吉原は得意の飛び出しから面白いようにボレーやら難しいシュートをたたき込みました。その活躍がトルシエ監督の目にとまり、99年7月2日、コパ・アメリカでのパラグアイ戦でフル代表デビュー。でも出場時間は短く、相手選手に子供扱いされた感じでした。それでもこれがコンサ現役選手による唯一の日本代表での出場のはずです。翌年、ガンバ大阪に移籍してしまい、結局、シドニーは行けず、日本代表にも呼ばれていません。FW大黒将志(在籍2001年。現イタリア・セリエAトリノ)はコンサ時代はほとんど活躍することなく、育てたとはいえないのですが、古巣のガンバ大阪に戻って大ブレイク。ジーコ監督の下、日本代表のスーパーサブ、切り札として使われ、ドイツW杯出場を果たしました。そしてMF今野泰幸(在籍2001-03年。現FC東京)はコンサの宝でした(泣)。コンサ時代にU-19、U-20でキャプテンを務めるなど中心選手として活躍。04年アテネ五輪に出場、翌05年にはついにフル代表を射止めますが、W杯には呼ばれませんでした。先日もオシム監督に呼ばれたのですが、故障があり、出場できませんでした。そのうち、今野と山瀬のホットラインでオシム・ジャパンを支える日が来るかもしれません。うれしい反面、ちょっと寂しくもあります。 さて、オシム監督はよく選手を見ていると思います。前監督がビッグネーム、スター選手中心だったのに対し、生きの良い選手をよくピックアップしています。コンサの選手たちも今後の頑張り次第では日本代表入りも決して夢ではありません。特に鈴木や上里、石井、藤田ら若手は目標を高く掲げて頑張ってほしいと思います。それがチームの活性化、ひいてはJ1昇格につながるに違いありません。 (なお、コンサ関係選手で漏れている人がいましたら、ぜひ教えてください)
2006年08月26日
携帯電話は諸般の事情でドコモを使っています。もう、かなり古い機種です。もっとも、中年おじさんなので、通話とメール以外はほとんど使ったことがなく、機能的には十分すぎるほどです。本当は写メールもしないので、カメラもいらないのですが。 さて、待ち受け画面は、実はもう記憶が定かでないのですが、ユニが2003-04年版なので、どちらかの年だと思います。どこのサイトでいただいた画像かも忘れましたが、上の娘に探して出してもらい、ゲットしました。サイトの管理者の方にはあらためてお礼を申し上げます。「ROAD TO J1」とあるように、J1昇格までの短期間使う予定でしたが、予想外に長くなってしまいました…。1日も早くJ1昇格を果たし、画面を一新したいと心から願っています。 着メロも娘にダウンロードしてもらった「赤黒の勇者」です。これもサイト管理者の方にあらためてお礼を申し上げます。あまり携帯は使わない方なのですが、この着メロが鳴ると職場の中には私の携帯と認識する人がいるようになりました。 いまのところ、新機種に変更する予定はありません。ワンセグも着うたも必要ないからです。壊れたら変えなければならないでしょうけど。ただ、J1昇格の暁には、少なくとも画面の変更を迫られますね。早くその日が来るのを待ちたいと思います。皆さんは待ち受け画面や着メロ、着うたを何にしていますか?
2006年08月21日
日本代表のオシム監督のキーワードは「走る」ことのようです。コンサドーレで「走る」ということで思い浮かぶ選手が森下です。J1時代の2001年7月、ガンバ大阪からレンタルで移籍してきました。GK以外ならどこでもできるユーティリティープレイヤーで、確か手薄な右サイドの補強ということでしたが、コンサでは主にボランチを務めました。決してうまい選手ではありませんでしたが、驚くのはその無尽蔵の運動量です。サッカー選手としては驚異的な持久力だったのではないでしょうか。キックオフから後半ロスタイムまで、とにかく細い体で走り回っていた印象が強いです。この年は13試合出場、無得点でした。その風貌からか、ひそかに「板長」の愛称で呼ばれました。 翌02年、完全移籍し、キャプテンになります。しかし、この年は監督解任が続き、チームが崩壊。最下位でJ2降格が決まる、つらいシーズンでした。29試合出場、2得点。そしてJ2に落ちた03年もキャプテンを続けましたが、この年も監督交代とチーム崩壊。悲劇のキャプテンとなりました。この年は37試合出場、1得点。ゴールを決めたのは7月5日の厚別での鳥栖戦。ゴール前のオフサイドっぽい位置にいた森下に浮き球のバスが渡り、胸でトラップするとボレーでたたき込むビューティフルゴールだったと記憶しています。 この年のオフ、意外なことに、なぜかジュビロ磐田から獲得のオファーがあり、前年途中から磐田に移籍していた佐藤洋平とともにJ1の舞台に戻るのでした。04年はほとんどカップ戦や時間稼ぎ要員で、リーグ戦は9試合出場、無得点。05年はついに出場しないまま、現役を引退しました。今年から磐田のユースのコーチを務めているはずです。 どの試合でか忘れましたが、すでに敗色濃厚となり、コンサ選手の足も止まったなか、ただ一人、最後までボールを追い続けた姿は忘れられません。ただし、この姿にはヤジが飛び、某掲示板などでは「無駄走り」「モリゲ」などと揶揄されたりしたものです。しかし、私は孤高のキャプテンの姿が目に焼き付いています。オシム監督就任であらためて注目されている「走る」。アクション&ムービングを掲げる柳下コンサドーレでも基本中の基本です。孤高のキャプテンは再評価されるべきだと思っています。 写真のカードは上段左2枚がJカード、右2枚はカルビー。下段左2枚はイレブンスターズ、右1枚はパーフェクトイレブンです。
2006年08月18日
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シングルCD「好きですサッポロ」(700円)は道内民放アナウンサー5人の「C.S.サポーターズ」により2000年3月に全国発売されました。といっても、私が入手したのはその3年後ぐらい、近所のコーチャンフォー美しが丘店で発見しました。 アナウンサーは当時、各テレビ局でコンサドーレの応援番組を担当していたHBCの石山愛子さん、HTBの山口美保さん、UHBの千葉朱里さん、STVの宮永真幸さんと永井公彦さん。チームの応援のため、報酬ゼロで歌い、売り上げの一部はチームに寄贈されました。このころはコンサドーレも道内唯一のプロスポーツチームとして道内各テレビ局もこぞって応援してくれていました。ありがたいことです。その後、女性3人はそれぞれ結婚されるなどで退局されました(フリーになった石山さんは昨年までNHK・BSの「速報Jリーグ」のキャスターを務めていたのは記憶に新しいところですね)。コンサ応援番組も打ち切りで消えたり、大半は大幅に姿を変えました。STVのお2人も最近は北海道日本ハムファイターズで忙しいようです(それにしても、「ハム彦」と称するのはやりすぎだと思います)。それでも、各局で細々とながらも応援番組を続けてくれていることはありがたいことで、ぜひとも今後も応援をよろしくお願いしたいところです。余談ですが、今、サポーターの間で支持が高いアナウンサーはTVh「コンサにアシスト!」の佐々木由衣子さんでしょうかね。 ところで、「好きですサッポロ」の元歌は1981年に森雄二とサザンクロスが歌ってヒットさせました。このCDでは軽快なサンバ調に編曲されています。コンサの応援ではアウェイの試合開場でかなり早くからサポーターたちが勝利した際に歌っていたそうです。残念ながら私はアウェイに行ったことがないので、競技場で歌ったことがありません。近い将来、アウェイに参戦した暁にはぜひとも熱唱したいと夢見ています。
2006年08月12日
みちのく食品の「しまふくごはん」(800円)は2006年J2道内開幕戦の3月11日、札幌ドームで発売されました。「しまふく寮」で選手たちに出している料理を、かなり忠実に再現したお弁当です。発売が発表された時、寮母さんのブログで紹介されていた料理をよだれをたらして見ていたサポーターたちを狂喜乱舞させたものです。しかし、調理に手間がかかることから、1試合に限定500食。買うのは至難の技とされ、これまでは席取りや段幕張りのために早朝から並んでいたサポたちが開場と同時にお弁当売り場に走る姿が見られるようになりました。しかも、1人で仲間の分まで10個以上も買い占める人まで現れ、買えなかった人たちを悔しがらせました。かくいう私も最初の発売日は開場30分くらい前から並んだのですが、売り場に行くと、やはり完売。2回目の4月5日に札幌ドームで上の娘の分と2個初めてゲットしました。その時の感激は今も忘れません。醤油やソースがないのに、味は濃すぎず、至福のひとときを過ごせました。驚いたのは、いい年して好き嫌いの多い上の娘がどのおかずも残さずに食べたのでした。以来、札幌ドームと厚別で販売され、最後となった7月29日の厚別で13回目の販売でした。途中から初回の再現や夏場の暑さに強いメニューにしたりで、13種類ということではありませんでしたが、寮母さんの愛情とみちのく食品の情熱をおいしくいただけました。毎回、寮母さんによるメニュー紹介とメッセージが添えられていました。手元に残してあるメッセージによると、私は結局、13回中、11回食べることができました。食べられなかった方には申し訳ないですが。写真は最後となった7月29日の「しまふくごはん」です。これが食べ納めになるとは、思っていませんでした。 次にみちのく食品が私たちを驚かせてくれたのは、衝撃的な「赤黒カレー」(380円)の登場です。赤カレーと黒カレーのレトルトダブルパックという、普通の会社なら思いついても決して商品化しないであろうものが世に出ました。しかもパッケージは赤黒縦縞。よくこんな企画が通ったものだと驚いたものです。6月3日からWEB先行発売が始まりましたが、私は10パックセットということで尻込みし、試合会場で発売された6月24日に厚別で4人家族用に5パック買いました。まあ、こんなに買うなら10パックセットもあまり変わらなかったな、と思ったのは内緒です。トマトベースの赤に、ビーフベースの黒で、味や辛さは良かったのですが、難を言うなら値段の割に具が少ないかな。でも、サポならそんなことは気にならない代物です。さらに厚別では確か同日から「赤黒カツカレー」(650円)を販売。私は7月12日に諸般の事情で到着が遅れ、「しまふくごはん」が売り切れていたので、初めて食べました。なかなかおいしかったのですが、欲をいえば、冷めていることとカツが切れ目だけで食べづらかったことでしょうか。結局、これが唯一の「赤黒カツカレー」体験となります。
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ほかの方のブログなどの情報によると、みちのく食品はその後、新会社「きらら食品」が一部弁当事業を引き継いでいるそうです。しかしながら、「しまふくごはん」や「赤黒カレー」を復活するのは難しいだろうと思われます。私たちに弁当で至福のひとときを与えてくれたみちのく食品に感謝したいと思います。決して忘れることはないでしょう。
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2006年08月11日
スポンサーだったみちのく食品が倒産してしまいました。試合会場で私たちに応援のエネルギー源となる弁当を提供してくれていたうえに、「しまふくごはん」という画期的な弁当を開発してくれたばかりでした。過去形の思い出として語ることになったことは残念無念です。 試合会場で最初に食べた弁当はサザエ食品の「必勝弁当」でした。ですから、コンサドーレの応援弁当はこの「必勝弁当」が元祖と思いこんでいました。コンサドーレの百科事典のようなコンサ・デ・コンサで調べてみたら、みちのく食品の「かつ弁」の方が1999年から発売していて、翌2000年発売の「必勝弁当」より古かったんですね。今回調べるまで知りませんでした。ただし、試合会場内では最初売っていなかったそうで、だから「必勝弁当」が先と思いこんでいたようです。 いつから試合会場で売るようになったのかは分かりませんが、厚別でたまに「かつ弁」(600円)、「DX(デラックス)かつ弁」(700円)を買うようになりました。いずれもおいしかったです。デラックスの方は意外なほどカツが少なく、幕の内弁当に近く、中央のご飯がのりやふりかけでサッカーピッチのような形状になっていたのが印象的です。そして、わが家で1番人気があったのが「かつサンド」(450円)でした。私も夏の暑い日など食欲のあまりない日に食べていたのですが、娘は2人ともカツサンドというものを初めて食べ、すっかりファンになりました。もう、食べられないかと思うと、家族ともども残念に思っています。「かつサンド」の赤黒のパッケージが気に入って、箱を保存しておりました。まさか、こんな形で紹介する日が来るとは夢にも思っていませんでした… そして、「しまふくごはん」ですが、文章が長くなりましたので、後編に続きます。
2006年08月06日
TOKUさんの呼びかけに賛同して、闘病中のなかさんへ、赤と黒の鶴を作りました。といっても、すっかり中年おじさんは折り方を忘れており、娘に折ってもらいました。私はなかさんもTOKUさんも直接は存じ上げないのですが、皆さんととともに願いが届いてほしいと思って参加させていただきました。
2006年07月27日
ご無沙汰していました。わが家のネット接続で故障があったうえ、復旧後も投稿意欲が失せるような試合が続き、サボっていました。しかーし、単純な私はもう復活しました。 「パーソナルスポンサー」は昨年から始まりました。サポーター個人をカモにする、いわば信者がお布施を教団に納める姿に似ています。「信ずる者は救われる」、ありがたい制度です。私も昨年から納めております。数少ない特典の一つに、「パーソナルスポンサーシール」があります。赤黒縦縞のユニホームの形をした小さなシールですが、私は一度も使ったことがなく、お蔵入りさせていました。ところが、パーソナルスポンサー2年目の今年3月、仕事でお邪魔したある職場で名刺交換したところ、なんと名刺にそのシールが張られているではありませんか。私より少し年配のその方にコンサグッズの携帯ストラップを示し「私もサポーターです」と話しかけたところ、初対面にもかかわらず大いに会話が弾みました。その後、15分ほどでしょうか、すっかり仕事を忘れてコンサ談義に花を咲かせ、「今年はやってくれそうですね」と意気投合しました。いやー、シールは使うものですね。 これ以後、私もならって名刺に張り始めました。現在は外回りの仕事ではなく、名刺交換する機会は少ないのですが、まれに「コンサドーレですか?」と聞かれることがあり、うれしいですね。今後もささやかながら、コンサのPRのためにも続けるつもりです。 ところで、6月末でしたか、「パーソナルスポンサーますますキャンペーン」と題して、今季半ばで再びお布施を求める手紙が舞い込みました。おそらく入場者数が伸び悩むなど、経営が苦しいのだろうと勝手に推察して、決して多くはない小遣いの中からまたお布施を納めました。「信ずる者は救われる」ように、チームもHFCもしっかり頑張ってほしいと切望します。
2006年07月03日
いうまでもなく、コンサドーレグッズを販売する店で、現在のシースペースの前身です。チームスポンサーの丸井今井様が経営しています。 コンサの百科事典ともいえるコンサ・デ・コンサで調べると、最初のグッズショップはチームができた直後の1996年4月、丸井今井一条館隣の西ビル1Fにあったそうです。ここには行ったことがありません。私が初めて行ったのは、丸井今井大通館のすぐ近くで大通公園に面した2代目の店で、96年8月にオープン、確かコンサドーレショップと名乗っていました。記憶がもう定かではありませんが、上の娘が吉原宏太ファンだった98年ごろ、室蘭から家族4人で行きました。グッズを少々買ったはずですが、何を買ったかはもう覚えていません。忘れられないのは、コンサ選手と2ショットが撮れるプリクラがあったことです。長女は宏太と撮ろうかどうしようか悩んだ末、撮りませんでした。私や妻は勧めたのですが、当時は反抗期でもあり、「いいのっ!」と言って撮らずに帰ったのです。後に行った時には、もうそのプリクラはなく、いまでも本人をはじめ、残念なことをしたと後悔しております。ぜひ、ああいうプリクラを導入してほしいですね。できれば、歴代の選手と撮れるといいなあ。 2000年12月に一条館9Fに移転、シースペースと命名されました。この年に私も札幌が本拠地となったことで、よく通うようになりました。そして02年10月、南館7Fの現店舗となります。ただ、最近は巨人軍や「水曜どうでしょう」グッズに押され、ややスペースが狭くなりましたが、コンサ神社やファンクラブブースなどもあり、試合のビデオも上映されています。今は同じフロアの近くにできた北海道日本ハムファイターズのショップに比べると、かなり負けていますが、再びコンサの人気が高まり、シースペースが活気づいてほしいと願っています。
2006年06月25日
愛称は「ノノ」さん。主にボランチを務めた頭脳的なMFでした。岡田コンサドーレ2年目の2000年に岡田監督に請われてジェフ市原から移籍、J2で36試合2得点、J1の翌01年は22試合無得点。決して華麗なプレーをする選手ではありませんでしたが、チームの攻守のバランスを取るのがうまかったように思います。何と言っても、先週書いたビジュとのダブルボランチでは、自らが汗をかくよりも、ビジュを上手に操縦していた印象が強いですね。サポの間では密かに「猛獣使い」とも呼ばれていました。そういえば、00年第20節の水戸戦で野々村のFKにビジュが頭で合わせ2点目を取った後、3点目を野々村が押し込むと、ビジュが野々村の足をひざに乗せて靴磨きのパフォーマンスがありました。これには後日談があり、石屋製菓様がオフに制作したCMに野々村が元モデルの奥様と出演、野々村にサッカーボールをぶつけて夫婦2人の抱擁のきっかけをつくったビジュに野々村が靴磨きをするという落ちがありました。本当にいいコンビでした。 そして特筆すべきはそのキャプテンシーでしょう。清水東高でも慶応大でもサッカー部主将。コンサでも入団した年に副キャプテンとなり、J1に上がった01年はキャプテンとしてチームを統率しました。コンサがゴールを決めると、喜びの輪に必ず加わっていましたね。思い出すのは00年第29節の湘南戦で播戸を倒した相手DFに頭突きし1発レッドで退場。出場停止明けには自慢の長髪をばっさり丸刈りにして現れ、責任感の強さを感じさせました。 コンサで最も幸せな2年間に活躍し、サポの心をわしづかみにした(今で言うイケメンですから女性ファンが特に多かったですね)のですが、01年はけがもあってか、シーズン終了後に戦力外通告。本人も悩んだようですが、サポに本当に惜しまれながら現役を引退。一応HFC強化部に籍を置きながら、その後のテレビなどでの活躍は皆さんご存じの通り。現在はスカパーのJリーグナイトの司会者や試合中継の解説者などを務めています。確か指導者のライセンスも取得中だったはずですので、できることならぜひコンサの監督に戻ってきてほしいと願っています。 写真のカードは上段3枚がJカード、下はイレブンスターズです。
2006年06月18日
コンサ史上、最も記憶に残る外国人選手というと、私の場合はビジュです。岡田コンサドーレの1年目、1999年にクレーベル退団後に途中入団。主にボランチを務めました。ブラジル人選手にしては華麗なプレーではありませんでした。むしろ技術的には下手。でも、無尽蔵のエネルギーと丈夫な体が売り物で、少々ぶつかっても平気でした。確かほお骨を折って、宮本のようなフェイスガードをつけて出場したこともありました。ただ、ややプレーは荒っぽく、よくファウルで相手選手をつぶしていたものです。逆にファウルされると、すごく痛がるのですが、相手にイエローカードが出た途端、元気に立ち上がって走っていたイメージがあります。とにかく見ていて飽きない、お茶目さんでした。通算成績は99-2000年のJ2で52試合8得点、01-02年のJ1で50試合2得点。決してうまい選手ではなかったので、コーナーキックなどからのこぼれ球をスタンドに打ち込む「宇宙開発」が印象に残っています。特に01年にJ2に落ちた浦和には相性がいいのか、決勝点を決めるなど大活躍し、シーズン後に浦和からオファーがあったとの噂がありました。真偽は知りませんが。 02年シーズン終了とともに戦力外となってチームを去りました。直後に札幌の女性と結婚したとの噂を聞いただけに、本当に残念でした。4年近くいたわけですから、おそらく外国人選手で最も在籍期間が長かったと思います。ところが、もう会えないと思っていたら、何と翌03年、J1の京都に途中入団し、13試合1得点。翌04年は京都がJ2に落ち、同じリーグで戦いました。14試合1得点で途中退団して再び日本からいなくなりました。05年は鳥栖に所属し、22試合2得点。センターバックまで務める姿にビックリしました。鳥栖を戦力外となりましたが、何と今年はJ1に昇格した甲府に。日刊スポーツの出しているプレイヤーズ名鑑によると、年俸が何と2000万円。確かコンサにいたときは1000万円足らずと報じられていたはずですから、出世したものです。今年で32歳になりますが、いつまでも丈夫で長持ちで活躍してほしいと願っています。 写真のカードは上段左3枚がJカード、右端はカルビー。下段左2枚はイレブンスターズ、右2枚はパーフェクトイレブンです。アッカンベーでもしているような表情はいかにもビジュらしいですね。
2006年06月10日
「真栄パパ」というハンドルネームは使い始めてもう結構な年月がたちました。最初に使った時期はもう記憶が定かではありませんが、2002年ごろだったと思います。使った場所は忘れもしません。コンサママさんのホームページでした。中年おじさんのくせに、ほのぼのとした井戸端会議風の掲示板などをのぞいていたのです。まったくのROMだったのですが、そのうちに何の話題かすっかり忘れましたが、ぜひとも書き込みしたくなり、はたと困りました。どんな名前にしようかとあれこれ悩み、最初、コンサパパにでもしようかと思いました。でも、それではコンサママさんご夫婦に失礼だろうし、うーんと長々と考え、熟慮した結果(といっても10分ほどですが)、中年おじさんであることを示す「パパ」に、住んでいる清田区真栄の地名から「真栄」をつけて「真栄パパ」が誕生したのです!いやー、何のドラマもない、安易なネーミングですね(^_^;) その後はこの名前を別な掲示板などでも浮気せずに使い続けています。コンサママさんにはお会いしたこともなく、中年おじさんがママさんたちの掲示板に出没して迷惑をおかけしていますので、この場をお借りして謝っておきます(何と上の娘はご尊顔を拝したことがあります!)。そういえば、今年入団した西大伍はなんとわが真栄地区の出身とか。真栄パパとしてはますます応援しなければ、と心に誓っております。 ところで、先日、試しにGoogleで「真栄パパ」をググってみたのですが、このブログなどがちゃんとヒットして驚きました。恐るべしGoogle!
2006年06月04日
1999年に所属したアシスは今をときめくロナウジーニョの兄ちゃんです。先週の日曜にNHKで放送された「W杯への挑戦」(昨日、BSで再放送されました)でロナウジーニョが取り上げられ、そこに「代理人の兄ロベルトさん」として登場しました。「選手としてブラジルとヨーロッパ、日本のJリーグ、コンサドーレ札幌でも活躍しました」と紹介されていました。ちょっとうれしかったですね。懐かしいので、今回急きょ取り上げることにしました。 コンサにいた現役当時も171センチ、70キロとがっちりした方でしたが、テレビでは少し太ったようでした。あのマラドーナの弟のマラドーナが前年限りで退団した後の司令塔としてJ2に落ちたチームの再建を期待され、10番を背負いました。生観戦する機会がなかったのですが、テレビで見た感じでは(外国人助っ人にしては)さぼらず、なかなかまじめな選手だった印象です。記憶に残っているのは、確か右45度の角度から蹴ったFKを相当な距離があったにもかかわらず直接ゴールに決め、本人もよほどうれしかったのか、両手を高く広げて誇らしげにしていたシーンを思い出します。 ただ、この年の外国人助っ人はリカルジーニョ、クレーベル、ジネイと「外れ」ばかり。アシスは出場29試合、8得点ですから、攻撃的MFとしてはまずまずだったと思いますが、結局、高額年俸などもあって1年で去りました。ちなみにこの年、途中入団したビジュは2002年までコンサに生き残ります。知人との間で当時、アシスの弟のことが話題になり、「年代別のブラジル代表らしいぞ。兄のつてでコンサに来ないかな」と冗談で話していました。その後、ブレイクしたロナウジーニョを見て、本当にびっくりしました。あの時、アシスを引き留めていたらもしかすると、と思わずにはいられません。 写真のカードはコンサに来る前に所属したアマドーラ(ポルトガル)時代のパニーニ社製です(外国のカードはよくわかりませんが)。コンサ時代のカードはありません。
2006年05月26日
亜細亜大時代は大学サッカー界の大型FWと鳴らし、コンサにはJFLだった1997年入団。黄川田といえば、ヘディングです。JFLの97年8試合無得点、Jリーグの98年20試合1得点、J2の99年21試合無得点、2000年30試合5得点、J1の01年13試合無得点。 身長179㌢ですから、電柱系FWというほど特別大きかった訳ではありませんが、私の印象では、スーパーサブとして試合途中から投入され、恵まれた身体能力を生かしてヘディングシュートを決めた姿が脳裏に焼き付いています。後ろにのけぞりながら長い滞空時間で高い打点から入れたゴールがありました。とても難しいプレーだったと思います。逆に足で決めたゴールもあったのでしょうが、まったく記憶がありません(笑)。何といっても思い浮かぶのは頭ですね。コンサには外国人助っ人を含め多くのFWが来て、そして去って行きましたが、ヘディングシュートのうまさだけなら黄川田が1番だったのではないか、とひそかに思っています。黄川田以前には万能型のバルデス、現在ならDFの曽田(元FW)、池内が比較的ヘッドに強い選手がいますが、最近はFWにそういう選手がいませんね。 01年シーズン限りでコンサを戦力外となり、02年からJ2の川崎フロンターレへ。その年34試合2得点、翌03年途中(5試合無得点)で現役を引退しました。そんな彼の名前を再び見たのは04年のロビンソン札幌屋上のフットサル場オープンの時。フットサル場を管理・運営するイベント企画会社の社員となり、札幌に戻ってきてくれたのでした。北海道出身じゃなく、しかも別なチームで引退した選手が帰ってきてくれるのはうれしいものですね。聞いたことはありませんが、札幌のFM局でDJも務めました。05年には北海道リーグのベアフット北海道に所属し、再びピッチに立ったようです。その後の動静は耳にしていませんが、どんな活躍をしてくれているのでしょうか。 なお、余談ですが、今年3月まで放送していたNHK連続テレビ小説「風のハルカ」に出演し、現在、野菜ジュースのCMに出ている黄川田将也は実弟です。「風のハルカ」放送中に私がネットで情報を見つけて教えると、わが家は大騒ぎになりました。なんとアホな一家でしょうか。 カードの上段はJカード、下段左はカルビー、右はイレブンスターズです。
2006年05月21日
わが家の車は1996年製のトヨタ・イプサムです。偶然ですが、コンサが生まれた年に買いました。さすがにあちこちガタがきていますが、なにせ走行距離が90000㎞弱なので、まだ乗り続けています。 写真の通り、シートカバーはカミさんのお手製です。確か2001年にJ1に昇格した年に会場で北海道新聞社が配った旗のデザインを見て「これなら簡単に作れるワ」と作ってくれたのもです。このダンナにして、この妻ありというべきでしょうか。いやいや、たいへん感謝しております。ヘッドレストにはやはり会場でもらって使っていなかったバンダナを活用しています。 もう5年ぐらいになるので、色あせてきていますが、この車に乗り続ける間は使い続けます。車の後ろのウインドウにはコンサドーレのステッカー、フロントグラスにはミニフラッグつきです。これで帯広ナンバーの紺色イプサムがわが家のコンサドーレ号です。かなり目立ちますので、悪いことはできません。コンサドーレの評判を下げてはいけませんからね。 さすがに、来年ぐらいには買い替えようかと話していますが、カミさんと娘らは「コンサは赤黒だから、次は真っ赤な車にしよう」と言います。中年おじさんとしては、赤はちょっと恥ずかしい気がして「それは勘弁して」と答えています。さて、どんな車になるのでしょうか。
2006年05月16日
ホームゲームを観戦に行くと無料でもらえるマッチデイプログラムにあるラッキープレゼント。わが家は何と当たったことがあります。 2003年4月26日、札幌ドームであったJ2のサンフレッチェ広島戦。娘2人と行ったのですが、私と続けて入った下の娘が初めて「大当たり」。別な列でプログラムをもらった上の娘はスカでした。当たったのはコンサドーレ賞としてサイン色紙。確か4、5人から選ぶもので、1枚はすぐに今野に決定。もう1枚がちょっと困ったのですが、確か「藤ヶ谷は洋平の正GKの座を奪ったからお母さんが嫌ってるからダメだね」などといった理由でベットを選びました。プレゼントの引き渡しは後半キックオフ後から試合終了30分後までで、人気の今ちゃんのサインがなくなったら大変と娘2人をハーフタイムから派遣し、無事、2枚のサイン色紙をゲットしました。結局、この試合は0-2で負けちゃったんですが、3人はニコニコして家路につきました。今ちゃんの色紙は今も階段の壁に飾られ、殿堂入りしています。しばらく後にホームシック?でさっさと帰国してしまったベットは百円ショップで見つけた色紙ホルダーにしまってあります。 それ以後、ラッキープレゼントはまったくかすりもしません。また、doze会員の来場記念プレゼントも当たったことがありません。この時に運を使い切ってしまったのでしょうか。また当たることを夢見て、今後も可能な限りホームゲームに通い続けたいと思っています。
2006年05月04日
セレッソ大阪からの移籍で1998年に入団。「ヒゲカジ」の愛称で親しまれました。コンサでは主にボランチやセンターバックを務めました。決してテクニック的にうまいタイプではなく、どちらかというと縁の下の汗かきタイプでした。98年のJリーグで23試合出場1得点、99年のJ2で26試合出場。私の印象では、リーダーシップがあり、チームのバランスを取るのがうまく、中盤の底で攻守の要を務めていたと思います。バランスが崩れ、失点した後に交代出場で入ると、妙にチームが安定した気がしています。さすがセレッソでキャプテンを務めた人物で、これぞベテランの力。3年目を迎えた柳下コンサドーレで欠けていた点で、今季のチームでは大塚に期待されている働きですね。そんな地味な存在ながら、サポーターには愛された選手であり、確か99年には似顔絵入りのTシャツなどヒゲカジグッズが売り出されました。まだグッズ欲に燃えていなかった私は買いませんでしたけど。 99年シーズンを最後に現役を引退。翌2000年からセレッソのサッカースクール担当に。04年からはチーム統括ディレクターとフロントの要職を務め、大森健作の移籍にも暗躍したものと疑われています。ぜひ今度は恩返しにいい選手をコンサに送り出してほしいものです。 写真のカードはいずれもセレッソ時代で、下段右から2枚がカルビー、ほかはJカードです。コンサ時代のカードはないようです。
2006年04月29日
どんなに寒くても半袖姿の「熱い男」でした。 忘れられないのは1998年12月5日、そう室蘭でのJ1第3参入決定戦です。関はこの年の10月になって、入れ替え戦をにらんで獲得したFW。リーグ戦は4試合出場し、無得点。入れ替え戦はこの日も含め4試合とも出場しました。この日の室蘭は雪に見舞われ、私もスキーウエアを着込んでの観戦。その寒さの中で関は半袖でした。涙なくして語れない試合は福岡に0-3。試合終了の笛とともに号泣する関の姿は忘れられません。移籍してきたばかりなのに、こんなにチームを愛してくれていたのか、と感極まったものです。 翌99年、J2で25試合出場で6得点。残念ながらシーズン後、戦力外となり、チームを去りました。ストライカーとしては物足りなかったかもしれませんが、妙に記憶に残る選手でした。天皇杯は2年で5試合3得点と天皇杯男でもありました。コンサとの縁は続き、コンサドーレ退団情報によると、2003年にジュニアサッカースクールの指導者になり、04年からU-12のコーチを務めています。ぜひともあの「熱い気持ち」を未来のコンサを担う選手たちに注入してほしいと思っています。 写真のカードは左と中央がJカード、右がカルビー、いずれも平塚時代のものです。
2006年04月28日
J1に昇格した2001年7月に北海道新聞社から刊行されました。HFCの特別協力の下、北海道新聞情報研究所編です。四六判260ページ、税込み1260円。1996年のチーム発足以来の歩みをつぶさに紹介しています。 発売と同時に購入し、すぐに読み終えました。チームよりも、コンサドーレを取り巻く人間模様に焦点が当てられ、とりわけ熱いサポーターなどがたっぷりと取り上げられており、たいへん興味深い内容です。さまざまなサポーターの活動ぶりは本当に勉強になりました。CVSやすいか隊などの貢献ぶりも見逃せません。コンサから広がるビジネスチャンスから経営問題、そして未来像まで描かれ、サポーター必読の書と言えるでしょう。 コンサを取り上げた単行本としては、これまで唯一のものだと思います。今でも北海道新聞社やアマゾンのネット販売で買えますが、ブックオフの105円コーナーあたりでよく見かけるようになりました。実は初めて105円コーナーで見たとき、思わずもう1冊買ってしまいました。カミさんから「家にあるのに」と責められましたが、「こんな良書が105円なんて…」という思いからでした。コンサが成績低迷とともに人気も落ち目となって売られたんだろうか、などと考えてしまいます。皆さん、この本を105円コーナーに眠らせておくのは惜しいので、見つけたらぜひ買い占めましょう。 そういえば、コンサドーレ10年史「夢に挑む」が7月に刊行されます。DVDつきで6300円。こちらはチームの歩みそのものが中心になるようですね。ちょっと高いですが、希望選手の直筆サイン入りというのがサポ心をくすぐります。私は印刷になりますが、選手全員にしようかと思っています。皆さん、HFCから購入しましょうね。
2006年04月21日
コンサを初めて生観戦した1998年にセレッソ大阪から移籍してきたFWが深川友貴でした。当時、転勤で室蘭に住んでいた私は高校サッカーの影響でやはり室蘭大谷高出身者を応援していました。当時、コンサには道産子選手がまだ少なく、それだけに貴重な存在でした。ただ、吉原宏太ファンの娘ら家族に、深川を応援していると、「えーっ、シブすぎる」と言われたものです。コンサでは98年Jで24試合2得点、99年J2で36試合5得点、2000年J2で13試合1得点、01年J1で11試合無得点と、後半はけがに泣きました。戦力外となって02年に水戸でプレーして引退、03年からコンサユースU-18のコーチを務めています。 児玉社長のブログ「近未来のコンサ」によると、4月5日の草津戦で一時、道産子選手5人が同時に出場、さらにベンチに1人いました。コンサが文字通り北海道のチームになりつつあり、喜ばしいことだと思います。深川コーチには引き続き道産子選手をトップチームに送り続けるよう育ててほしいと願っています。 写真のカードは左が2001年Jカード、右は同年のイレブンスターズ。セレッソ時代にもカードになっていますが、コンサではこの2枚だけのようです。
2006年04月14日
2002年に「住友順子『夢のつづき』プロジェクト」として取り組まれた「コンサドーレ札幌メモリアルCD」です。 HFC営業部社員だった住友順子さんはこの年の8月1日、若くして病気で亡くなりました。残されていた「短かったが懸命に生きてきた生涯の証を残してほしい」というメッセージから、このCD収録の企画が持ち上がったそうです。収録は8月31日に厚別で行われた柏戦で行われました。通常より開場時間を繰り上げ、ゴール裏にサポーター有志らが集結。ご遺族を前に、応援歌やコールを収録しました。私も上の娘と2人で参加し、目頭を熱くしながら精いっぱい歌いました。「コンサのサポは素晴らしい」と心にまたひとつ刻み込みました。応援歌7曲にコールやサックス演奏1曲を収録したCDはこの年の11月17日、札幌ドームで行われた名古屋戦で入場者全員に無料で配布されました。応援歌を聴ける貴重な音源ですが、残念ながら非売品のため、いまでは入手できません。ブックオフやヤフオクで見かけることはありますが。 この年のコンサは奮闘むなしくJ2降格が決定。翌年からJ2暮らしが続いています。でも、このCDを聞くたびに、熱い思いがよみがえってきます。亡くなった住友さんの夢も、私たちサポーターの夢も、まだまだ続きます。
2006年04月10日
職場などでいじってはいましたが、ようやく自分のパソコンを買ったのは室蘭に住んでいた1997年、NEC製のウィンドウズ95でした。パソコン通信のニフティサーブに加入したものの、メールで使うくらい。そのうち世の中はインターネットに移行し、最初はニフティ経由でネットを見たりしていましたが、OCNに加入。ダイヤルアップで確か月に利用10時間までのコースだったと思います。当時はそれで十分だったんですね。毎日見るようになったのは2000年に札幌に引っ越し、ADSLに加入して使い放題になってからです。パソコンはその年の暮れにSOTECのMEに買い替え、昨年秋に日立のXPに。ADSLもどんどん速くなり、もうダイヤルアップには戻れない体になりました。 というわけで、コンサ関係のホームページに入り浸るようになったのは2000年からです。公式ホームページを手始めに、ネットサーフィンの結果、行き着いたのが、公式ホームページより先に開設されたコンサ・デ・コンサをはじめ、コンサイズム、コンサドーレ札幌インフォメーションなどです。このうち、インフォは今も活発ですが、コンサ・デ・コンサやコンサイズムは残念ながらほとんど更新されていないようです。ほかに当時見ていたホームページもかなり姿を消しました。やはりチームの長引く成績低迷も影響したのでしょうか。寂しい限りです。 そんな時に登場したのがコンサドーレ札幌オフィシャルブログです。間違いなくサポーターの情報交換、交流の場になっています。そのうえ、HFCの児玉社長のブログによると、運営するWEBOSSさんから入金があり、新しいHFCの収入源として期待されるとか。サポが盛り上がり、チームを鼓舞し、そしてHFCに金銭的なメリットをもたらすように、私も微力ながら、ブログを続けていかなければ、と思いました。
2006年04月03日
Jリーグの思い出で書いたように、J発足時は鹿島を応援していました。その中でも、私のヒーローはアルシンドでした。日本に来る前は無名の選手で、神様ジーコに呼ばれて来日。抜群の決定力であれよあれよとゴールを量産、地域おこしで注目されてはいたものの、優勝争いとは無縁と思われていた鹿島を1993年前期で優勝に押し上げた最大の功労者です。1967年生まれ、身長175センチと体格に恵まれていたわけではありませんが、ここぞというときは必ず決めるストライカーでした。一躍人気者になった彼は独特の髪型から「カッパ君」などと呼ばれ、かつらのCMにも出ました。鹿島で93年に22得点、94年に28得点を挙げ、移籍したヴェルディで95年に19得点でした。余談ですが、ヴェルディはもともと嫌いだったのですが、私はよりによって鹿島からアルシンドを金で横取りしたと思って、ますます嫌いになりました。それとともに、金次第で移籍するサッカー選手のありようにもちょっと寂しさを禁じ得ませんでした。 そして96年に誕生したコンサドーレはなんとアルシンドを獲得。さほど熱心に応援していたわけではないのですが、華のある選手が来るのがうれしかったものです。ところが、JFL開幕から2試合目の富士通川崎戦で審判に暴言を吐いた(バカと繰り返したらしい)ため退場となり、4試合出場停止の処分。出場停止明け3試合目の徳島戦で再び退場、2試合出場停止処分。ついにアルシンドは6月11日に退団を発表。コンサでは出場わずか5試合、1得点で去ることになってしまいました…。決定力不足が語られる今のコンサからすると、本当に惜しい天才ストライカーだったと思います。 いったんブラジルに帰り、翌97年に再びヴェルディに戻り、16試合、10得点を挙げますが、往年の輝きは失われていたように思います。その後、テレビの「あの人は今」といった番組で、祖国で大農場の経営者として紹介されていましたが、今はどうしているでしょうか。蛇足ですが、アルシンド獲得のためにHFCがつぎ込んだ移籍金や年俸は相当な額だったらしく、巨額の累積債務をもたらし、経営難が長く続く一因ともなったようです。 写真のカードは鹿島とヴェルディ時代の上段がカルビー、下段がJカード。コンサでは球団配布カードがあったようですが、残念ながら私は持っていません。
2006年03月24日
Jリーグが開幕したのは1993年、10チームでのスタートでした。バブルの余韻もあってか、きらびやかなスタートを切ったJリーグは大変なブームとなり、チケットが入手できないとか、カルビーのJリーグチップスがすごい人気になるなど、にわかサッカーファンが巷にあふれました。当時、転勤で東京に住んでいて、職場のテレビも以前はプロ野球を入れていたのがJリーグにチャンネルが変わりました。もともとサッカーが好きな私も喜んでテレビ観戦していました。
問題はどのチームを応援するか、でした。もちろんコンサドーレは影も形もありません。実はJリーグ以前、テレビでサッカーを見るのは正月の天皇杯決勝と高校選手権決勝、トヨタカップぐらいでした。社会人では、横浜マリノスの前身の日産とヴェルディの前身の読売クラブがライバル関係にあり、どちらかといえば、華麗なプレーの読売クラブを応援していました(読売新聞は大嫌いでしたが)。でもJリーグ発足時に、ヴェルディはプロ野球の読売巨人軍のように金を使って選手を買い集め、「企業名を入れさせろ」などとわがまま放題で、すっかりアンチ・ヴェルディになりました。
そこで、一番に北にあるチームで、地域おこしとしてJリーグに参入した鹿島アントラーズを応援することにしました。日本リーグ2部のチームが母体で、ジーコがいるとはいえ、弱そうだからというのもありました。ところが、FWアルシンドの大活躍もあり、あれよあれよと思っているうちに初年の第1ステージのサントリーシリーズを優勝してしまいました。これは意外でした。ただ、第2ステージのNICOSシリーズ覇者のヴェルディ川崎にチャンピオンシップで敗れ、初代年間優勝は逃しましたが。その後、鹿島はご存じの通り、常に優勝を争うチームとなり、それとともに私の応援熱は冷めていきました。常勝チームはもしかすると私に合わないかもしれません。
ほかにJリーグではサッカーどころの清水エスパルス、リトバルスキーのいたジェフ市原が気になっていました。でも、やっぱり地元、北海道のチームがほしいと熱望していました。そんな時、札幌青年会議所のメンバーらが中心になって「札幌にJリーグを」と署名運動などを進め、そしてJFLにいた東芝の誘致を実現し、96年にコンサが産声を上げました。このとき、私はまだそれほど「われらがチーム」という思い入れはなく、現在のコンサ中心の生活を送る日が来るとは知るよしもなかったのでした…
2006年03月19日
思い出話も尽きてきましたので、今後はたまに新コンテンツ「思い出の選手」も始めます。思い出とといっても、一方的な片思いですけどね。トレーディングカードのコレクションがある選手はそれも添えて紹介します。
第1回はディドです。私にとっては文字通り「守護神」と思った最初のGKです。コンサにはJFL時代の1997年とJリーグに昇格した98年に所属、98年はリーグ戦全試合出場を果たしています。1957年生まれとほぼ同年代のおじさんとしては、40歳を過ぎてもプレーしている姿にただただ感動していました。ディドといえば、いつも一番後ろから叫んでいるというか、怒鳴っているイメージ。前線の選手たちをいつも叱咤激励、鼓舞していましたね。忘れられないのは97年5月25日の川崎F戦。テレビ観戦でしたが、1点を追う展開で後半44分、コーナーキックで自陣ゴールを空けて相手ゴール前で攻撃に加わり、その気持ちが奇跡の大逆転劇につながったと信じています。生観戦で見たのは2試合しかないのですが、ああいう魂を今後のコンサにも受け継いで行ってほしいと思います。
余談ですが、引退後は岡田監督の下、GKコーチを務めました。宮の沢を初めて訪れた際、練習開始前に一番早く姿を現し、黙々と走っていました。思わず「ディド!」と声をかけ、手を振ると笑顔で手を振ってくれました。「いい人だー」と心に刻みました。でも、岡田監督が去った後もGKコーチを続けましたが、J2降格が決まった2002年限りで退団。翌03年から岡田監督の下、横浜FマリノスのGKコーチになってしまいました。ディドが去るとともに、コンサユースU-15で大活躍した息子のマイクもマリノスユースに移籍してしまい、今季、トップチームに昇格しました。194センチの長身で、かえすがえすもコンサでは過去にいなかった電柱系FWになれたのに、と残念でなりません。
このカードは98年のJカード。前所属の名古屋や磐田時代のカードは結構ありますが、コンサ時代のカードはこの1枚だけのようです。
2006年03月11日
中年おじさんのぬるサポのせいかもしれませんが、私はブーイングが好きではありません。それでも、思い切りブーイングしたことがあります。
2001年11月3日、札幌ドーム。そうです、前年、J1昇格の立役者となったFWエメルソンがよりによって浦和レッズの選手としてやって来たときです。上の娘とともに、入場とともにブーイング、選手紹介でブーイング、試合中までボールに絡むたびにブーイングしました。サポーターの気持ちとしては、なんとかコンサにつなぎとめようと、事実上のエメルソン基金として持株会に出資したのに、エメは川崎フロンターレに行ってしまい、さらには前年、J1昇格争いをした浦和に移籍しただけに、かわいさ余って憎さ百倍といったところだったと思います。
ほかにも審判のミスジャッジにも何度か、ブーイングしました。相手の汚いプレーにもブーイングしたことがあります。
それでも、自分の愛するチームにはどんなにふがいないゲームをしてもブーイングしたくありません。柳下監督などは、そういう時にはブーイング歓迎といった発言をしているようですが、常に応援は前向きでありたいというのが私の思いです。ただ、汚いプレーには敵、味方なく、ブーイングすべきだと思います。その意味で今日、フッキが相手を殴ったことはブーイングものです(いろいろ過去に問題のあった家本主審は今日に限っては妥当なジャッジだったと思います。むしろ、水戸の河野に対するレッドは厳しすぎる気がします)。
ふがいないチームを叱咤激励する意味でのブーイングも理解できますので、他の方がやるのまで反対する気はありません。ただ、一つ提案したいのは最近、相手チームの入場時や選手紹介の際に熱烈サポーター席を中心に行われるブーイングはやめませんか。サッカーは相手がなくてはできません。激しい競争を勝ち抜いてJリーガーになった選手たちに対するリスペクトを失ってはならないと思います。相手をブーイングすることで、自分のチームの選手たちをも、おとしめているような気がしてならないのです。相手にブーイングする暇があったら、自分たちのチームを力いっぱい応援したい、と私は思っています。
今回はちょっと思い出から脱線しました。反省。
2006年03月05日
先週は仕事の都合で札幌の自宅に帰れず、更新できませんでした(泣)。本日、久々に帰宅し、昨日の試合の録画を見て、勝利の余韻に浸っております。
本題に入ります。「共通ウィズユーカード」はチームスポンサーの札幌市交通局様(厳密には札幌市交通事業振興公社様でしょうか)が発売しているプリペイドカードです。1000円のカードを買えば1100円分(1万円なら11500円)使えます。札幌の市営地下鉄、市電、市内線のバスで使え、バスと地下鉄の乗り換えでもちゃんと乗り継ぎの割引料金となるスグレモノです。コンサドーレのチームや選手をデザインしたウィズユーカードは地下鉄の厚別駅か、福住駅で試合のある日に年何回か販売されています。私が買い始めたのは2002年からです。以来、コレクションしたのは02年が小倉、和波、酒井、03年がウィル、今野、堀井、藤ヶ谷、04年が曽田、新居、柳下監督、05年が堀井、砂川です。03年以降はすべてそろっていると思いますが、違っていたら指摘していただければ幸いです。
これ以前もかなり販売されたようで、とりわけ2000年は多数あるようです。コレクターとしては、ヤフオクなどで一部入手しましたが、安くないと買えないので、とてもそろいません。レアなものとしては97年のJFL優勝、祝Jリーグ昇格という2枚セットを手に入れました。ぜひ今年、J1昇格を決め、またこういうカードを売り出してほしいと願っています。そういえば、ホーム開幕戦の3月11日午前11時から、鈴木智樹をデザインしたウィズユーカードが地下鉄福住駅で1500枚発売されます。1枚1000円です。興味のある方はいかがでしょうか。並ばないと、売り切れるかもしれませんが。
なお、オフィシャルパートナーズのJR北海道様も過去にコンサドーレのオレンジカードを発売していました。最近は北海道日本ハムファイターズのカードを発売しているようですが、コンサドーレは03年のチーム集合写真のカード以後は発売されていないかもしれません。こちらもぜひJ1昇格を決めることで、発売してもらいたいと思います。
2006年02月18日
『あなただけのオリジナルコンサドーレフィギュアが当たる!クラシックキャンペーン』は2003年6月23日から9月1日まで、オフィシャルパートナーズのサッポロビール様が展開しました。サッポロクラシック6缶パックに1枚ついてくる応募マークを2枚1口で応募すると、2000人に当たるというものでした。
実は当時、佐藤尽の熱烈ファンだった上の娘が選手のフィギュアがもらえるものと思いこみ、ビールが好きなカミさんに頼み込んで頑張りました。私はあまり飲めない方なので、カミさんがここぞとばかりに箱買いしたり、知人に応募マークをもらったりして数口応募しました。その結果、見事に当選。ところが、選手のフィギュアは肖像権の関係もあってだめと分かり、結局、私の写真を送ることになりました。そして12月初めに届いたのが写真にあるフィギュアです。家族は「結構似ている」と言いますが、本人としてはビミョーな感じです。
2006年02月12日
コンサドーレの公式ガイドブックはチーム創設の1996年から毎年春に発行されています。HFCの監修で、発行は2003年までイエローページで、04年から北海道新聞社に代わりました。価格は税込みで96-98年は1000円、99年から1200円です。近年はJリーグの開幕時に合わせて発売されています。サイズは96年がA4判変形(少し長さが短い)、98年がA5判と小さかったほかは、A4判です(多少大きさが異なりますが)。
私がきちんと買うようになったのは遅く、確か2001年からでした。でも、いまはそれ以前のものもそろっています。どうしたかというと、札幌市内のブックオフを根気よく回り、見つけたものです(主に雑誌のサッカーコーナーで)。たまにヤフオクで高額出品されていますが、暇のある方はブックオフあたりで安く巡り会えることがあります。もっとも全部そろうにはかなり時間がかかりましたが…。
内容は、どれも選手をビジュアルに紹介するのが基本で、ほかにデータ類やコンサドールズ、オフィシャルサポーターズクラブ、シースペースなどをふんだんに紹介しています。とりわけ古いものは懐かしい選手たちに再会できるのが楽しいですよ。96年版を見ると、ペレイラとアルシンドが対談しており、アルシンドは2000年まで日本でプレーするといい、「今度は僕が、札幌の子どもたちに夢を与える番だ」と語っています。その後の退場処分や途中退団を思うと…。また、ルーキーだった吉原宏太の初々しい姿にも会えます。
今年もおそらく開幕のころに発売されると思います。早く今年の戦士たちを誌上で見たいと楽しみにしています。
2006年02月11日
初めて宮の沢白い恋人サッカー場を訪れたのは2001年春だったと思います。前年の2000年にオープンしたコンサ専用練習場ですが、なにせ住んでいる清田区からは遠いものですから、なかなか行くことはできません。このときもチョコレートファクトリーに行きたいという家族のおつきあいのためで、残念ながら練習が始まる前に帰らなければならないのでした。それでも、GKコーチだったディドがいち早く姿を現し、ピッチの周りを走り始めました。手を振ると、笑顔で手を振ってくれました。さあ、選手も出てくるぞというところで「もう行くわよ」と家族に連れられ、後ろ髪を引かれる思いで帰ったのでした。以来、サテライト観戦に行ったほかは、チョコレートファクトリーに何度か行きましたが、宮の沢での練習は見ていません。
初めて練習を見学したのは札幌ドームのサブグラウンドで2003年7月だったと思います。この年は確か宮の沢が芝の張り替えで使えず、練習は札幌ドームなどを使っていました。6月にカミさんと上の娘が清田区にある白旗山での練習を見に行き(大森健作がけがした日です)、サインもらい放題だったと聞き、私も12倍ズームのデジタルカメラを購入し、勇んでドームへ行ったのです。一応、社会人ですので、なかなか休みと練習の日程が合わず、行けるのは年に2、3回といったところでしょうか。あこがれの監督、選手たちの写真を撮ったり、サインをもらったりでき、ファンとしてはうれしい機会ですね。それにしても、休日だと、見学客の多いこと、多いこと。ビョーキの人がたくさん来ていますね、人のことは言えませんが。
ぜひ今後も、札幌ドームでも練習してほしいものだと願っています。
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ブログタイトルは「真栄パパの思い出語り」から2014年2月に「習慣コンサ」に改め、さらに2022年1月1日から「毎日コンサ」に改称しました。「毎日が日曜日」なので、毎日、コンサドーレのことを考え、書いていきます。 気持ちだけは熱いですが、体がついていかない老年(2018年、還暦に突入)のぬるサポです。 北空知の秩父別町生まれ。札幌市清田区真栄に自宅があります。
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