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ブログタイトルは「真栄パパの思い出語り」から2014年2月に「習慣コンサ」に改め、さらに2022年1月1日から「毎日コンサ」に改称しました。「毎日が日曜日」なので、毎日、コンサドーレのことを考え、書いていきます。 気持ちだけは熱いですが、体がついていかない老年(2018年、還暦に突入)のぬるサポです。 北空知の秩父別町生まれ。札幌市清田区真栄に自宅があります。

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村田達哉

2008年03月02日

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父「村田って、覚えているか?」、上の娘「村にムラムラの村田だよね」。先日、HFCから「強化部スカウト担当に就任!」の発表があった日、父娘でそんな会話を交わしました。「村にムラムラ」は当時のダンマクにあったフレーズでしたっけ、最近は勉強が忙しいとかでつれない娘もよく覚えておりました。

村田は読売クラブ-V川崎(現東京V)を経て、出場機会を求めて1995年にコンサドーレの前身の東芝に入団。コンサドーレになった96年から2000年限りで退団するまで、主に左サイドバックで活躍しました。確か東芝時代を知る選手としては、最後まで残った選手ではなかったでしょうか。私は生観戦では見たことがなく、テレビ観戦だけですが、決して技巧的なタイプではないものの時折見せるオーバーラップでわくわくさせ、闘志あふれるプレーでサポを魅了する選手だったように記憶しています。明るい性格で何よりサポのことを思ってくれる選手でもあり、サポから愛されました。「白い恋人」のCMでも演歌歌手風の和服姿で登場し、アイドルのコータに対抗して、笑いも取れる選手でした。正式な退団発表の前だったと思いますが、2000年12月3日に室蘭で行われた天皇杯2回戦で試合後、スタンドを回って握手に歩き、サポから胴上げされる映像をテレビで見て泣けてきました。退団時に胴上げされた選手はほかにはいないのではないでしょうか。

さて、コンサでのリーグ戦出場記録はJFL54試合4得点、Jリーグ18試合1得点、J2で37試合無得点。退団後は出場機会を求めて仙台、大宮を歩き、04年限りで現役を引退しました。その後、イタリアのキエーボ・ベローナの育成部コーチを務め、指導者の道を歩んでいましたが、本人は確か「いつか札幌に戻って来る」と語っていたので、こういう形でコンサに戻ってくるとは本当に驚き、うれしく思いました。元戦士たちがスタッフとして帰ってくるのは、チームとしての成熟を図る意味でも大歓迎です。イタリアでの経験や人脈をスタッフとして生かしてほしいものです。それにしても、HFCオフィシャルホームページの中の人もよほどうれしかったのでしょうか、感嘆符「!」付きのニュースを初めて見た気がします。

写真のカードは98年のJカードです。仙台移籍後にカードが多数出ています。



市村篤司

2008年02月02日

恵庭市出身の市村篤司は2003年にコンサドーレに入団したMFです。北海高校時代は主にボランチとして活躍しました。02年10月に厚別競技場で行われた全国高校選手権大会道予選は北海対室蘭大谷の顔合わせ。休日で晴天だったので急きょ自転車で厚別へ向かい、観戦しました。その時は市村という名前さえ知らなかったのですが、中盤で攻守の要として活躍していた選手が市村で、確かクロスバーをたたく惜しいシュートも放ちましたが、残念ながら室蘭大谷に敗れてしまいました。そういえば、この試合には北海の先輩である山瀬が観戦に来ていましたね。その1、2週間後にコンサドーレ入団が発表され、「ああ、あの選手か」と驚いたものです。

J2に落ちた03年、ジョアン・カルロス監督の下、第14節の水戸戦で途中交代でデビューしたのを皮切りに、5試合に出場(無得点)、主に攻撃的なMFで起用されました。一番記憶に残るのがアクションサッカーを掲げる柳下監督が就任した翌04年3月の開幕戦、札幌ドームでの甲府戦です。2-1とリードした後に途中出場。終盤にGK藤ヶ谷が家本主審により退場とされ、数的不利となったなかで、市村がゴール前へドリブルで仕掛けたところ、ボールを奪われ、それがつながれてロスタイム同点弾の起点となってしまったのです。試合後に本人は怒られたそうですが、果敢に攻め上がる姿をすがすがしく思いました。その後、この悔しさを4月の第6節、横浜FC戦で初得点を決めて、はらしています。記憶が定かではありませんが、確か開幕戦と同じようにサイドから中央へ切れ込んでミドルシュートをたたき込んだように覚えています。結局、この年は先発、交代合わせて34試合に出場、左右両サイドなどで活躍しましたが、シーズン後に戦力外となってしまい、驚きました。

翌05年は九州リーグのロッソ熊本(現ロアッソ熊本)、06年と昨年は昇格したJFLで戦いました。今季からJ2に昇格し、Jリーガーとして復活します。移籍後のプレーはまったく見ていないのですが、ぜひスカパーで勇姿を見てみようと思っています。


岡田佑樹

2008年01月12日

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1月8日、MF岡田佑樹のJFLのFC栃木への移籍が発表されました。昨季限りで戦力外となっていました。いよいよ岡田がチームを去るのとかと思うと、ちょっぴり寂しくなりました。

岡田は2003年、J2に落ちたコンサドーレに入団しました。前年、静岡県の名門・藤枝東高を卒業したものの、大学受験に失敗。一応、中央防犯藤枝サッカークラブに所属しながら、大学目指して浪人中だったようで、03年から就任した城福敬強化部長が高校時代から着目していたそうです。ポジションは主に4バックなら右サイドバック、3バックなら右ウイングバック。持ち味はスピードを生かしたドリブルで、攻撃参加する姿はまさに突貫小僧。岡田が攻め上がると、ワクワクしました。ただし、細身の軽量級なので、屈強な相手DFにかかると、吹っ飛ばされたりもしましたね。デビューした03年の7月2日、札幌ドームでの大宮戦では初ゴールを決め、とにかくうれしくて仕方がないと、いつまでも喜んでいたのを思い出します。04年からは背番号2。得点はこの後、05年に2点挙げただけですが、ほかにドリブルでペナルティーエリアまで切れ込んでファウルを誘い、PKを得たことがありました。難点は守備面で、J2出場記録は03年に16試合、04年26試合、05年38試合とほぼ主力を務めましたが、06年から2シーズンはついに1試合も出場できませんでした。それでも昨年は天皇杯3回戦に右サイドバックで出場、見せ場はあまりありませんでしたが、久々に元気な姿を見ることができました。

私にとっては砂川とともに生涯初めてサインをもらった選手でした。ちょっとテレながら小旗に書いてくれたことをつい昨日のことのように覚えています。写真の06年のJカードにサインしてもらった時も、この年は出場できずに黙々と練習した後に声をかけると、あの笑顔でサインしてくれました。女性陣に人気が高い選手でしたが、いつもまじめにファンサービスをしていたのも人気の一因でしょう。

移籍先の栃木FCはあの柱谷幸一監督の下、積極的に元Jリーガーを補強して、J2昇格を本気で狙っています。まだ24歳と若いのですから、チームの昇格に貢献して、再びJ2のピッチに戻ってくることを祈っています。



大森健作

2007年12月17日

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12月2日、J2徳島に所属する大森健作が引退を発表しました。健作といえば、前回のJ1昇格を知るサポにとって忘れられない選手でしょう。2000年、2年目のJ2に挑む岡田武史監督に誘われ、京都から移籍。背番号6で、主に3バックの左ストッパーとして活躍しました。堅実な守備が売り物でしたが、時折見せるオーバーラップは彼の代名詞で、確かアパレル業者と組んでそんなブランドのTシャツを売り出したりしましたね。コンサでは珍しく華のある選手で、おしゃれなうえ、しゃべりも面白く、テレビに出演するといえば、健作が多かったように思います。いち早く茶髪にしていて、服装も格好良かったです。ファンサービスも熱心にこなし、サポの人気が高かったですね。コンサでの出場記録はJ2の00年が38試合、J1の01年が29試合、同じく02年29試合、J2に落ちた03年は故障もあり14試合にとどまり、翌04年は13試合に出た後、途中でJ1のC大阪に移籍しました。03年からコンサ史上初の複数年契約(2年)を結んだのも、ニュースになりました。04年限りでコンサから戦力外となり、05年からはJ2に昇格した徳島に所属しましたが、同年は24試合、翌06年18試合と故障もあって出場試合数が減り、今季は出場していなかったようです。

J1、J2を通じて生涯唯一のゴールが2000年7月29日の厚別。J1昇格争いのライバル、宿敵・浦和に先制を許すも、田渕龍二のミドルで1-1の同点。後半41分、健作は相手パスをカットして、相手DFもかわして自らゴール左に持ち込み、左足で見事にゴール。私はテレビ観戦でしたが、絶叫したことをよく覚えています。おそらく前回の昇格を語るときに、今回の愛媛戦の西のゴールと同じように、サポの間で長く語り継がれるゴールだったと思います。

徳島のホームページによると、「サッカーには携わっていきたい」と語っていますが、今後の進路は未定のようです。コンサでもサポから愛された健作よ、お疲れ様でした。今後の人生に幸多かれと祈っています。

写真のカードは上段がJカード、下段左2枚がカルビー、中央がイレブンスターズ、右2枚がパーフェクトイレブンです。



中尾康二

2007年07月16日

最近、チームのイエローカードが増えています(ジャッジの問題もありましたが)。昇格がかかる終盤戦に向けて、無用なイエローやレッドは極力避けたいものです。イエローカードでいつも思い出すのが中尾康二です。四日市中央工高を卒業して当時J2のコンサドーレに入団。主にボランチや右サイドなどをこなす、守備的なMF、DFの選手でした。その年は出場1試合、J1に上がった翌01年は3試合出場にとどまり、この年の11月からブラジルへ短期留学に赴きましたが、帰国直前の翌02年1月に試合中に骨折してしまいます。出場機会のなかった02年は途中で当時J2の横浜FCにレンタル移籍、7試合に出場しました。翌年は復帰し、ちなみにこれは同時期に福岡から復帰した河村優とともに、レンタルからの出戻り第1号だったようです。03年はJ2で24試合、そして運命の04年は背番号10を背負って20試合に出場した後、8月にあの事件で新居辰基とともに解雇されました。

プレースタイルは決してうまい選手ではありませんが、豊富な運動量でガツガツと相手の攻撃の芽をつぶす役割を担いました。ただ、やや雑というか、接触プレーで相手を止めることが多く、イエローカードコレクターといわれるほど、しょっちゅうカードをもらい、退場させられたことも少なくありません。技術不足によるラフプレーはほめられたものではありませんが、あえて擁護すれば、もっと接触プレーに寛容な欧州リーグならこんなにカードをもらうこともないでしょうし、どうも審判にも偏見というか、先入観で見られていた気がします。あの事件のことはかばうことができませんが。

ひたむきな武骨なプレーぶりはわが家では人気で、イエローをもらってもどこか憎めないキャラクターでした。とりわけカミさんは佐藤洋平がいなくなってからは中尾に期待していたようです。確か04年1月のキックオフイベントで上の娘がサインをもらい、その時のサインと写真はわが家の宝物としてしまってあります。

解雇後はFC静岡を経て、06年からFC岐阜に所属。FC岐阜は今季、JFLで4位以内に入れば、J2に昇格します(現在3位)。コンサドーレはJ1に昇格するため、来季、戦うことはないでしょうが、Jリーガーに復帰した中尾をまた見たいと思っています。

残念ながらトレカは出ていないようです。


平間智和

2007年03月26日

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サッカー素人の中年おじさんにとって、記憶に残る選手というのはゴールを決めるなど目立つ選手、活躍した選手です。あまり活躍できなかったのに、なぜか鮮明な記憶に残っている選手の1人がMF平間智和です。横浜Mでデビューし、山形や仙台でJ2を経験、いったん横浜Mに戻ってから2002年にコンサへ来ました。実は入団前は全く知らない選手でした。コンサでもJ1だった02年に15試合出場、無得点、J2に落ちた03年も8試合出場、無得点と、活躍したとはいいがたい成績でコンサを去りました。しかし、そんな彼ですが、練習試合などではものすごい活躍で「白恋のセレソン」「宮の沢の帝王」などと呼ばれていたようです。その実力の片鱗を見たのが忘れもしない02年9月29日の札幌ドームでのジュビロ磐田戦。先発した平間はキレキレで、ドリブルで切り込んで、当時J1最強だった磐田のDF陣をずたずたにしました。そして放った強烈なシュートは惜しくもクロスバーか、ポストに阻まれましたが、磐田側は間違いなく冷や汗を流したプレーでした。「あのジュビロをきりきり舞いにさせている」と、生で観戦して本当に興奮したシーンでした。結局、平間は電池が切れ、後半に交代。試合もVゴール負けしました(まだ磐田には公式戦未勝利です)。それともう一つ、記憶に残るのは03年4月9日、アウェイの大宮戦。開始早々に1点先制され、敗色濃厚の試合。途中から出場した平間は後半41分、左サイドから鋭いクロス。年代別日本代表のGK川島永嗣をして前に弾くのが精いっぱいで、詰めていたウィルが難なくゴール。引き分けに持ち込む価値あるアシストでした。一部の掲示板では「あれはGKが捕れない魔球だ」などと盛り上がったのを覚えています。あと、どの試合か忘れましたが、厚別の試合で、ペナルティーエリアの左側で後ろに相手DFを背負って受けたパスをO脚でスルー、左サイドを駆け上がった和波が抜け出しフリーでボールを得ましたが、残念ながらオフサイド。忍者・平間の名を高めました。出場時間が少ない割に、意外なほどプレーが印象に残っています。

コンサを退団した後、04年にJ1の新潟で1試合のみ出場。05年にJFLのFCホリコシ、06年から故郷に戻り、JFLのソニー仙台に所属。今年で30歳。自分で納得いくまで現役で頑張ってほしいと願っています。

写真の左はJカード、右はイレブンスターズです。



田渕龍二

2007年03月16日

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「龍ちゃん」と呼ばれ、サポに愛された背番号2番が田渕龍二でした。大塚製薬(徳島ヴォルティスの前身)から1997年に入団、「2」を6年間にわたって背負い続けました。ポジションは右サイドバック。地味な存在でしたが、決してさぼらない堅実な守備でチームに貢献しました。自ら目立とうとはせず、「寡黙な職人」といったタイプでした。ついつい攻撃の方に目が行くサッカー素人の私にはあまり印象に残る選手ではありませんでしたが、彼が主役になった試合がありました。J2の2年目の岡田コンサドーレが降格してきた浦和レッズと対戦した2000年7月29日の厚別。私はテレビ観戦だったのですが、テレビでこれほど興奮した試合はそう多くありません。前半にクビツァ(コンサと相性がいいのか、随分決められた記憶があります)に先制を許しましたが、後半18分、エメルソンからのパスを受けた田渕が相手DFをかわし、右45度から見事なミドルシュート、同点に追いつきました。意外な人物のゴールに思わずバンザイを叫びました。そして後半41分には左サイドをやはりDFの大森健作が持ち上がり、逆転弾をたたき込み、テレビの前で飛び上がって喜んだのを覚えています。J2優勝、J1昇格を決定づけた大一番だったと今でも思っています。

その田渕も2002年シーズン限りで戦力外となり、いったん現役を引退。ところが、翌03年のシーズン開幕後、右サイドバックが足りなくなった当時J1の神戸からオファーがあり、チームがJ2に降格する中、1人J1昇格を果たしたのでした。結局、この年限りで引退。出身地の徳島県に戻って自動車教習所の教官をしながらアマチュアチームに所属、昨年には県代表で国体に出場したそうです。

コンサ時代は口が重い、寡黙なイメージでしたが、昨年10月21日に札幌ドームで行われた10周年感謝デーのサンクスゲームに出場した際はインタビューに饒舌に話すのにビックリしました。徳島ヴォルティスがJ2入りした05年以降、地元テレビ局で解説者を務めたりしているそうなので、堂に入ったものなのでしょう。明日17日にアウェイで行われる徳島戦でスカパーの解説者を務めてくれます。田渕の解説を聞くのは初めてですので、今から楽しみです。もちろんコンサも連勝を飾ってくれるものと期待しています。

写真のカードは上段と下段左端はJカード、下段の残り2枚はイレブンスターズです。



佐藤洋平

2007年02月04日



コンサドーレで守護神といえば、私が思い浮かべるのは佐藤洋平です。ディドも好きでしたが、なにせ生では2試合しか観戦しておらず、熱心に応援し始めたときにゴールマウスを守っていたのが洋平でした。あの鹿島アントラーズで正キーパーを務めた後、コンサには1999年から2003年半ばまで所属。J2で79試合、J1で56試合に出場しました。とりわけJ1昇格を決めた2000年シーズンと翌01年のJ1では相手FWとの1対1のピンチを神がかりのセービングで何度も防ぎ、J1昇格と残留に大きく貢献しました。寡黙ながら、気迫のこもったプレーが見ていた者にも確かに伝わりました。強いハートがあったと思います。文字通り「神」として堅守速攻のチームを支えました。しかし、02年は守備が崩壊し、自身のパフォーマンスもややダウンしたでしょうか。翌03年には藤ヶ谷がGKに起用されることが増え、シーズン途中の9月にジュビロ磐田に移籍してしまいました。この年、初めてキャプテンを務めたのですが、ジョアン・カルロス監督に選手を代表して意見したため対立したとも言われていました。磐田ではこの年、リーグ戦に出場こそなかったのですが、天皇杯で大ブレイク。5試合に出場し、見事、天皇杯を獲得し、柳下正明監督の胴上げに貢献し、GKに恵まれなかった磐田サポの信頼を勝ち取り、翌年には正GKになりました。

実はカミさんが大の洋平ファンでした。偶然、誕生日が同じ11月22日(何歳上になるかはヒミツだそうです)。今思えば磐田への移籍直前の03年夏、清田区の白旗山での練習を佐藤尽ファンの上の娘と見学に行き、カミさんは洋平と2ショットで撮影し、今も宝物として台所に飾ってあります。背の低いカミさんは洋平の肩の高さほどしかなく、残念ながら目をつぶってしまったのが玉にキズですが。

その洋平が今シーズン限りの引退を表明したそうです。最近は川口能活に正GKの座を奪われているとはいえ、まだ34歳。体力よりも、経験がものを言うGKならまだまだできるとも思いますが、こればかりは本人が決めることですので、悔いの残らない1年となるよう完全燃焼してほしいと願うばかりです。コンサドーレには今季、草津で昨季全試合出場した高木貴弘が加わり、林卓人と佐藤優也と正GK争いを演じそうですが、まだ守護神として安心して見ていられる存在はいません。いっそうの奮起を期待しています。

写真のカードは上段がJカード、中段と下段左端がカルビー、下段左から2、3枚目はパーフェクトイレブン、右2枚はイレブンスターズです。



堀井岳也

2006年12月16日



先日、デビューした古巣であり、現役最後のチームとなった甲府から戦力外となり、引退を発表しました。岳也といえば、なんといっても思い出すのは2001年9月15日、札幌ドームでの清水戦のゴールでしょう。シーズン半ばで山形から移籍したばかり。それまで私はまったく知らない選手でした。このシーズン、J1に昇格した岡田コンサドーレは堅守速攻を武器に健闘しますが、いかんせん、勝ちきれずに追いつかれ逆転負けを喫することが多かった年です。この清水戦もアダウトとウィルの得点で2-1とリードしながら、ロスタイムに失点し、延長戦に。ホーム側でB自由席と上の娘と観戦した私も「またやられるのでは…」と心配していました。ところが、79分に途中交代でJ1デビューを果たした岳也は相手ゴール前中央に張ると、大森からのクロスにうまく合わせてVゴールを決めてくれたのでした。もっとも、アウェイ側のゴールでの出来事だったので、正直、誰がどう決めたのかは後で映像を見て確認するまでまったく分からなかったのですが、とにかくうれしくて娘らと飛び上がって喜んだことをよく覚えています。

J1のこの年は結局、6試合1得点。02年はJ1で14試合1得点。J2の03年は41試合8得点と確かチーム得点王の活躍でしたが、04年は33試合1得点と不振。気合が入った05年は体がキレていて「今年はやってくれそうだ」と思っていたところ、5月7日の山形戦で無念の骨折、シーズン終盤に復帰しますが、11試合2得点に終わりました。FWとしては器用なタイプではありませんでした。とにかく裏を狙って走る一瞬のスピードが売り物ですが、よくオフサイドにかかりました。無駄走りをいとわず、前線で執拗に相手ボールを追いかける魂のチェイシングが魅力でしたが、オフサイドを取られたり、相手DFとの競り合いでファウルを取られると、ふて腐れたような態度を示すのが玉にキズでした。それでも、とにかくがむしゃらに頑張る、ガッツあふれる姿が好きでした。

05年シーズン終了後にコンサを戦力外となると、何とJ1に昇格する甲府へ移籍。06年、16試合1得点で最後のシーズンを終えました。来季からは出身地でもある甲府で育成スタッフとなるそうです。ぜひあの魂というか、ガッツのある選手の育成に努めてほしいと願っています。今のコンサ選手たちにも見習ってほしい点があるように思います。

写真のカードはすべてJカード。上段左が2000年、中央が01年、右が04年(コンサで唯一のカードのようです)。下段は06年のチームエディションです。



清野智秋

2006年12月01日



本日、HFCから3選手の契約満了(戦力外)が発表されました。来季は緊縮財政ということで、大なたが振るわれるかと心配していただけに、思ったより少なかったというところでしょうか。3選手ともまだ若いので、現役を続けるなら新天地で頑張ってほしいと願っています。皆さんがコンサに残した足跡は決して忘れません。

3選手のなかで、やはり一番記憶に残る選手が3シーズンいたFW清野智秋です。2000年にあのジュビロ磐田に入団。翌01年にJリーグデビュー、あの磐田でJ1に2試合出場しています。しかし、02年途中で生活態度の問題(借金?)だとかで解雇されたそうです。柳下監督が就任した04年、東海リーグの静岡FCにいるところをおそらく柳下監督が呼んで入団しました。ややFWにしては体の線が細く、足が速いとか、ドリブルがうまいとか、ヘディングに強いとか、これといった武器がわかりにくい選手でしたが、逆に言えば、どれもこれもそれなりにこなし、柳下監督が言うように「シュートがうまい」タイプでした。この年、J2で44試合全試合に出場、チームの全得点30点のうち9点を挙げました。05年は長く不振が続きましたが、第3クールの終わりから第4クールにかけて爆発。終わってみれば28試合で10得点の活躍でした。ところが、今季はほとんど出場さえできません。どうしたのかなと思っているうちに、10月26日から古巣の静岡FCへレンタル移籍で出されたのでした。

思い出すゴールは05年10月22日、函館千代台での山形戦。後半開始直後、砂川からの浮き球のパスから決勝点となるゴールを決めたのは忘れられません。降りしきる雨のなか、びしょぬれになりながら函館まで来て良かったと思ったものです。そして同年11月19日、札幌ドームでの京都戦。この年、ぶっちぎりでJ1昇格を果たす京都を相手にハットトリック。最後に追いつかれて引き分けに終わりましたが、FW清野のワンマンショーのようでした。

今となってはこんなにシュート力があるのに、なぜ? と思わずにいられません。これほど浮き沈み、むらっ気があるのは、もしかすると、メンタルの問題なのかもしれませんが、本当に惜しい選手だと思います。

カードは左が磐田時代の01年Jカード、右は05年のJカードです。



小倉隆史

2006年11月12日



「レフティーモンスター」ことオグちゃんがコンサ戦士となったのはJ1だった2002年シーズンでした。高校時代から注目され、名古屋グランパスなどで活躍、日本代表FWとしても期待されながら、靱帯断裂など大けがに泣いてきた選手。コンサドーレへの入団が決まったときは、「けがはもう大丈夫なのか」という不安もありましたが、ウィルの抜けた後だったので「すごい選手が来る」と期待が膨らみました。シーズンが始まってみると、けがはすっかり癒えていたようで、主力として活躍。FWとしては前線で張るよりも、すぐに下がってボールを受ける1・5列目の選手だったようです。確かに運動量では物足りなかったのですが、ときおり繰り出すトリッキーなパスは相手選手だけでなく、味方選手も合わせられないことが多かったのがご愛敬でした。喜怒哀楽が顔にはっきり表れるタイプで、ゴールを決めたときの笑顔は見ている者もうれしくさせてくれました。確かこの年のJリーグオールスターにコンサからただ1人東軍に出場、先制ゴールを決めました。ただし、MVPは2点目を決めた元コンサのエメルソン(当時浦和)にさらわれ、テレビの前で悔しかったのを覚えています。

結局、コンサでは27試合出場、7得点。最下位でJ2降格が決まったシーズンで、チーム得点王でした。当然、1年でのJ1復帰を目指して小倉には翌年も活躍してもらいたかったのですが、確か最終戦を終えてのインタビューで「男として許せないことがある」と発言、すでに次期監督に内定していたジョアン・カルロスとの確執を示唆し、退団してしまいました。中には「J2が嫌なのでは」との見方もありましたが、翌年途中からJ2の甲府へ入団。それから3シーズンを甲府で過ごし、J1昇格へチーム力向上に貢献しました。コンサとの対戦でも活躍し、痛い思いをしましたが、どこか憎めない選手でした。

05年シーズン限りで甲府から戦力外となり、選手続行を希望したようですが、結局、現役を引退。甲府のJ1初試合で引退セレモニーが行われました。その後はスーパーサッカー(TBS)などで解説者(レポーター?)として活躍、ドイツワールドカップにも派遣されていましたね。10月21日のOB戦に、ぜひとも来てほしかった1人でした。オグちゃん、商売も大事だろうけど、かつてのファンにも顔を見せてよ、と思ったのは内緒です。

写真のカードは上段左端がJカード、右2枚はカルビー(右端はオールスター)、下段左端がイレブンスターズ、右3枚はパーフェクトイレブン(右端は同じくオールスター)です。



播戸竜二

2006年10月09日



今が旬のバンちゃんです。10月4日のガーナ戦で日本代表デビュー、それも流血しながら頭にテーピングして出続けたガッツの男です。

コンサドーレに入団したのはJ2だった2000年シーズン。吉原宏太がレンタル移籍したガンバ大阪からトレードの格好で出場機会を求めてやってきました。この前年、U-20日本代表としてワールドユース準優勝のメンバーだったそうですが、私は活躍をよく知りませんでした。それでもエメルソンとの2トップで得点を量産。開幕戦で先制点を挙げながら骨折するというアクシデントもありながら30試合15得点と活躍し、J1昇格に貢献しました。プレー自体はうまいというよりも、気持ち、気迫を前面に出すタイプ。コテコテの関西弁で、やんちゃな兄ちゃんというキャラクターでした。エメが唯我独尊でほとんどパスを回さないなかでのこの得点はたいしたものです。J1に上がった翌01年はエメが抜けた後、ウィルと組んで27試合9得点。忘れられないのは、どの試合かは不明ですが、確か右サイドからの角度45度のFKをウィルがけり、バンちゃんはそれをヘディングで入れたように見えました。公式記録も播戸の得点となりましたが、あとでビデオを見直したら、どう見てもかすってもおらず、ウィルのFKが直接入ったようでした。それでも自分が決めたとアピールするのがFWですね。

岡田監督が去り、バンちゃんもレンタルでしたので、コンサが移籍金を払えなかったためか、01年シーズン終了とともに神戸へ移籍。04年には17得点でJ1得点ランキング3位に。J2降格の神戸を退団し、今季から古巣のガンバ大阪に戻り、10月9日現在、リーグ4位の15得点と大活躍中です。現在のコンサ戦士たちはどちらかというと、淡泊というか、プレー中にもあまり声が出ず、おとなしいタイプが多い気がします。ぜひともバンちゃんのように気迫でゴールにねじ込む点を学んでほしいと思います。とりわけFW陣は。

写真のカードは上段がJカード、下段左がカルビー、右がイレブンスターズです。



森下仁志

2006年08月21日



日本代表のオシム監督のキーワードは「走る」ことのようです。コンサドーレで「走る」ということで思い浮かぶ選手が森下です。J1時代の2001年7月、ガンバ大阪からレンタルで移籍してきました。GK以外ならどこでもできるユーティリティープレイヤーで、確か手薄な右サイドの補強ということでしたが、コンサでは主にボランチを務めました。決してうまい選手ではありませんでしたが、驚くのはその無尽蔵の運動量です。サッカー選手としては驚異的な持久力だったのではないでしょうか。キックオフから後半ロスタイムまで、とにかく細い体で走り回っていた印象が強いです。この年は13試合出場、無得点でした。その風貌からか、ひそかに「板長」の愛称で呼ばれました。
翌02年、完全移籍し、キャプテンになります。しかし、この年は監督解任が続き、チームが崩壊。最下位でJ2降格が決まる、つらいシーズンでした。29試合出場、2得点。そしてJ2に落ちた03年もキャプテンを続けましたが、この年も監督交代とチーム崩壊。悲劇のキャプテンとなりました。この年は37試合出場、1得点。ゴールを決めたのは7月5日の厚別での鳥栖戦。ゴール前のオフサイドっぽい位置にいた森下に浮き球のバスが渡り、胸でトラップするとボレーでたたき込むビューティフルゴールだったと記憶しています。

この年のオフ、意外なことに、なぜかジュビロ磐田から獲得のオファーがあり、前年途中から磐田に移籍していた佐藤洋平とともにJ1の舞台に戻るのでした。04年はほとんどカップ戦や時間稼ぎ要員で、リーグ戦は9試合出場、無得点。05年はついに出場しないまま、現役を引退しました。今年から磐田のユースのコーチを務めているはずです。

どの試合でか忘れましたが、すでに敗色濃厚となり、コンサ選手の足も止まったなか、ただ一人、最後までボールを追い続けた姿は忘れられません。ただし、この姿にはヤジが飛び、某掲示板などでは「無駄走り」「モリゲ」などと揶揄されたりしたものです。しかし、私は孤高のキャプテンの姿が目に焼き付いています。オシム監督就任であらためて注目されている「走る」。アクション&ムービングを掲げる柳下コンサドーレでも基本中の基本です。孤高のキャプテンは再評価されるべきだと思っています。

写真のカードは上段左2枚がJカード、右2枚はカルビー。下段左2枚はイレブンスターズ、右1枚はパーフェクトイレブンです。



野々村芳和

2006年06月25日



愛称は「ノノ」さん。主にボランチを務めた頭脳的なMFでした。岡田コンサドーレ2年目の2000年に岡田監督に請われてジェフ市原から移籍、J2で36試合2得点、J1の翌01年は22試合無得点。決して華麗なプレーをする選手ではありませんでしたが、チームの攻守のバランスを取るのがうまかったように思います。何と言っても、先週書いたビジュとのダブルボランチでは、自らが汗をかくよりも、ビジュを上手に操縦していた印象が強いですね。サポの間では密かに「猛獣使い」とも呼ばれていました。そういえば、00年第20節の水戸戦で野々村のFKにビジュが頭で合わせ2点目を取った後、3点目を野々村が押し込むと、ビジュが野々村の足をひざに乗せて靴磨きのパフォーマンスがありました。これには後日談があり、石屋製菓様がオフに制作したCMに野々村が元モデルの奥様と出演、野々村にサッカーボールをぶつけて夫婦2人の抱擁のきっかけをつくったビジュに野々村が靴磨きをするという落ちがありました。本当にいいコンビでした。

そして特筆すべきはそのキャプテンシーでしょう。清水東高でも慶応大でもサッカー部主将。コンサでも入団した年に副キャプテンとなり、J1に上がった01年はキャプテンとしてチームを統率しました。コンサがゴールを決めると、喜びの輪に必ず加わっていましたね。思い出すのは00年第29節の湘南戦で播戸を倒した相手DFに頭突きし1発レッドで退場。出場停止明けには自慢の長髪をばっさり丸刈りにして現れ、責任感の強さを感じさせました。

コンサで最も幸せな2年間に活躍し、サポの心をわしづかみにした(今で言うイケメンですから女性ファンが特に多かったですね)のですが、01年はけがもあってか、シーズン終了後に戦力外通告。本人も悩んだようですが、サポに本当に惜しまれながら現役を引退。一応HFC強化部に籍を置きながら、その後のテレビなどでの活躍は皆さんご存じの通り。現在はスカパーのJリーグナイトの司会者や試合中継の解説者などを務めています。確か指導者のライセンスも取得中だったはずですので、できることならぜひコンサの監督に戻ってきてほしいと願っています。

写真のカードは上段3枚がJカード、下はイレブンスターズです。



ビジュ

2006年06月18日



コンサ史上、最も記憶に残る外国人選手というと、私の場合はビジュです。岡田コンサドーレの1年目、1999年にクレーベル退団後に途中入団。主にボランチを務めました。ブラジル人選手にしては華麗なプレーではありませんでした。むしろ技術的には下手。でも、無尽蔵のエネルギーと丈夫な体が売り物で、少々ぶつかっても平気でした。確かほお骨を折って、宮本のようなフェイスガードをつけて出場したこともありました。ただ、ややプレーは荒っぽく、よくファウルで相手選手をつぶしていたものです。逆にファウルされると、すごく痛がるのですが、相手にイエローカードが出た途端、元気に立ち上がって走っていたイメージがあります。とにかく見ていて飽きない、お茶目さんでした。通算成績は99-2000年のJ2で52試合8得点、01-02年のJ1で50試合2得点。決してうまい選手ではなかったので、コーナーキックなどからのこぼれ球をスタンドに打ち込む「宇宙開発」が印象に残っています。特に01年にJ2に落ちた浦和には相性がいいのか、決勝点を決めるなど大活躍し、シーズン後に浦和からオファーがあったとの噂がありました。真偽は知りませんが。

02年シーズン終了とともに戦力外となってチームを去りました。直後に札幌の女性と結婚したとの噂を聞いただけに、本当に残念でした。4年近くいたわけですから、おそらく外国人選手で最も在籍期間が長かったと思います。ところが、もう会えないと思っていたら、何と翌03年、J1の京都に途中入団し、13試合1得点。翌04年は京都がJ2に落ち、同じリーグで戦いました。14試合1得点で途中退団して再び日本からいなくなりました。05年は鳥栖に所属し、22試合2得点。センターバックまで務める姿にビックリしました。鳥栖を戦力外となりましたが、何と今年はJ1に昇格した甲府に。日刊スポーツの出しているプレイヤーズ名鑑によると、年俸が何と2000万円。確かコンサにいたときは1000万円足らずと報じられていたはずですから、出世したものです。今年で32歳になりますが、いつまでも丈夫で長持ちで活躍してほしいと願っています。

写真のカードは上段左3枚がJカード、右端はカルビー。下段左2枚はイレブンスターズ、右2枚はパーフェクトイレブンです。アッカンベーでもしているような表情はいかにもビジュらしいですね。



アシス

2006年06月04日



1999年に所属したアシスは今をときめくロナウジーニョの兄ちゃんです。先週の日曜にNHKで放送された「W杯への挑戦」(昨日、BSで再放送されました)でロナウジーニョが取り上げられ、そこに「代理人の兄ロベルトさん」として登場しました。「選手としてブラジルとヨーロッパ、日本のJリーグ、コンサドーレ札幌でも活躍しました」と紹介されていました。ちょっとうれしかったですね。懐かしいので、今回急きょ取り上げることにしました。
コンサにいた現役当時も171センチ、70キロとがっちりした方でしたが、テレビでは少し太ったようでした。あのマラドーナの弟のマラドーナが前年限りで退団した後の司令塔としてJ2に落ちたチームの再建を期待され、10番を背負いました。生観戦する機会がなかったのですが、テレビで見た感じでは(外国人助っ人にしては)さぼらず、なかなかまじめな選手だった印象です。記憶に残っているのは、確か右45度の角度から蹴ったFKを相当な距離があったにもかかわらず直接ゴールに決め、本人もよほどうれしかったのか、両手を高く広げて誇らしげにしていたシーンを思い出します。

ただ、この年の外国人助っ人はリカルジーニョ、クレーベル、ジネイと「外れ」ばかり。アシスは出場29試合、8得点ですから、攻撃的MFとしてはまずまずだったと思いますが、結局、高額年俸などもあって1年で去りました。ちなみにこの年、途中入団したビジュは2002年までコンサに生き残ります。知人との間で当時、アシスの弟のことが話題になり、「年代別のブラジル代表らしいぞ。兄のつてでコンサに来ないかな」と冗談で話していました。その後、ブレイクしたロナウジーニョを見て、本当にびっくりしました。あの時、アシスを引き留めていたらもしかすると、と思わずにはいられません。

写真のカードはコンサに来る前に所属したアマドーラ(ポルトガル)時代のパニーニ社製です(外国のカードはよくわかりませんが)。コンサ時代のカードはありません。



黄川田賢司

2006年05月26日



亜細亜大時代は大学サッカー界の大型FWと鳴らし、コンサにはJFLだった1997年入団。黄川田といえば、ヘディングです。JFLの97年8試合無得点、Jリーグの98年20試合1得点、J2の99年21試合無得点、2000年30試合5得点、J1の01年13試合無得点。
身長179㌢ですから、電柱系FWというほど特別大きかった訳ではありませんが、私の印象では、スーパーサブとして試合途中から投入され、恵まれた身体能力を生かしてヘディングシュートを決めた姿が脳裏に焼き付いています。後ろにのけぞりながら長い滞空時間で高い打点から入れたゴールがありました。とても難しいプレーだったと思います。逆に足で決めたゴールもあったのでしょうが、まったく記憶がありません(笑)。何といっても思い浮かぶのは頭ですね。コンサには外国人助っ人を含め多くのFWが来て、そして去って行きましたが、ヘディングシュートのうまさだけなら黄川田が1番だったのではないか、とひそかに思っています。黄川田以前には万能型のバルデス、現在ならDFの曽田(元FW)、池内が比較的ヘッドに強い選手がいますが、最近はFWにそういう選手がいませんね。

01年シーズン限りでコンサを戦力外となり、02年からJ2の川崎フロンターレへ。その年34試合2得点、翌03年途中(5試合無得点)で現役を引退しました。そんな彼の名前を再び見たのは04年のロビンソン札幌屋上のフットサル場オープンの時。フットサル場を管理・運営するイベント企画会社の社員となり、札幌に戻ってきてくれたのでした。北海道出身じゃなく、しかも別なチームで引退した選手が帰ってきてくれるのはうれしいものですね。聞いたことはありませんが、札幌のFM局でDJも務めました。05年には北海道リーグのベアフット北海道に所属し、再びピッチに立ったようです。その後の動静は耳にしていませんが、どんな活躍をしてくれているのでしょうか。
なお、余談ですが、今年3月まで放送していたNHK連続テレビ小説「風のハルカ」に出演し、現在、野菜ジュースのCMに出ている黄川田将也は実弟です。「風のハルカ」放送中に私がネットで情報を見つけて教えると、わが家は大騒ぎになりました。なんとアホな一家でしょうか。

カードの上段はJカード、下段左はカルビー、右はイレブンスターズです。



梶野智

2006年05月04日



セレッソ大阪からの移籍で1998年に入団。「ヒゲカジ」の愛称で親しまれました。コンサでは主にボランチやセンターバックを務めました。決してテクニック的にうまいタイプではなく、どちらかというと縁の下の汗かきタイプでした。98年のJリーグで23試合出場1得点、99年のJ2で26試合出場。私の印象では、リーダーシップがあり、チームのバランスを取るのがうまく、中盤の底で攻守の要を務めていたと思います。バランスが崩れ、失点した後に交代出場で入ると、妙にチームが安定した気がしています。さすがセレッソでキャプテンを務めた人物で、これぞベテランの力。3年目を迎えた柳下コンサドーレで欠けていた点で、今季のチームでは大塚に期待されている働きですね。そんな地味な存在ながら、サポーターには愛された選手であり、確か99年には似顔絵入りのTシャツなどヒゲカジグッズが売り出されました。まだグッズ欲に燃えていなかった私は買いませんでしたけど。

99年シーズンを最後に現役を引退。翌2000年からセレッソのサッカースクール担当に。04年からはチーム統括ディレクターとフロントの要職を務め、大森健作の移籍にも暗躍したものと疑われています。ぜひ今度は恩返しにいい選手をコンサに送り出してほしいものです。

写真のカードはいずれもセレッソ時代で、下段右から2枚がカルビー、ほかはJカードです。コンサ時代のカードはないようです。



関浩二

2006年04月29日



どんなに寒くても半袖姿の「熱い男」でした。
忘れられないのは1998年12月5日、そう室蘭でのJ1第3参入決定戦です。関はこの年の10月になって、入れ替え戦をにらんで獲得したFW。リーグ戦は4試合出場し、無得点。入れ替え戦はこの日も含め4試合とも出場しました。この日の室蘭は雪に見舞われ、私もスキーウエアを着込んでの観戦。その寒さの中で関は半袖でした。涙なくして語れない試合は福岡に0-3。試合終了の笛とともに号泣する関の姿は忘れられません。移籍してきたばかりなのに、こんなにチームを愛してくれていたのか、と感極まったものです。

翌99年、J2で25試合出場で6得点。残念ながらシーズン後、戦力外となり、チームを去りました。ストライカーとしては物足りなかったかもしれませんが、妙に記憶に残る選手でした。天皇杯は2年で5試合3得点と天皇杯男でもありました。コンサとの縁は続き、コンサドーレ退団情報によると、2003年にジュニアサッカースクールの指導者になり、04年からU-12のコーチを務めています。ぜひともあの「熱い気持ち」を未来のコンサを担う選手たちに注入してほしいと思っています。

写真のカードは左と中央がJカード、右がカルビー、いずれも平塚時代のものです。



深川友貴

2006年04月21日


コンサを初めて生観戦した1998年にセレッソ大阪から移籍してきたFWが深川友貴でした。当時、転勤で室蘭に住んでいた私は高校サッカーの影響でやはり室蘭大谷高出身者を応援していました。当時、コンサには道産子選手がまだ少なく、それだけに貴重な存在でした。ただ、吉原宏太ファンの娘ら家族に、深川を応援していると、「えーっ、シブすぎる」と言われたものです。コンサでは98年Jで24試合2得点、99年J2で36試合5得点、2000年J2で13試合1得点、01年J1で11試合無得点と、後半はけがに泣きました。戦力外となって02年に水戸でプレーして引退、03年からコンサユースU-18のコーチを務めています。
児玉社長のブログ「近未来のコンサ」によると、4月5日の草津戦で一時、道産子選手5人が同時に出場、さらにベンチに1人いました。コンサが文字通り北海道のチームになりつつあり、喜ばしいことだと思います。深川コーチには引き続き道産子選手をトップチームに送り続けるよう育ててほしいと願っています。

写真のカードは左が2001年Jカード、右は同年のイレブンスターズ。セレッソ時代にもカードになっていますが、コンサではこの2枚だけのようです。



アルシンド

2006年04月03日


Jリーグの思い出で書いたように、J発足時は鹿島を応援していました。その中でも、私のヒーローはアルシンドでした。日本に来る前は無名の選手で、神様ジーコに呼ばれて来日。抜群の決定力であれよあれよとゴールを量産、地域おこしで注目されてはいたものの、優勝争いとは無縁と思われていた鹿島を1993年前期で優勝に押し上げた最大の功労者です。1967年生まれ、身長175センチと体格に恵まれていたわけではありませんが、ここぞというときは必ず決めるストライカーでした。一躍人気者になった彼は独特の髪型から「カッパ君」などと呼ばれ、かつらのCMにも出ました。鹿島で93年に22得点、94年に28得点を挙げ、移籍したヴェルディで95年に19得点でした。余談ですが、ヴェルディはもともと嫌いだったのですが、私はよりによって鹿島からアルシンドを金で横取りしたと思って、ますます嫌いになりました。それとともに、金次第で移籍するサッカー選手のありようにもちょっと寂しさを禁じ得ませんでした。

そして96年に誕生したコンサドーレはなんとアルシンドを獲得。さほど熱心に応援していたわけではないのですが、華のある選手が来るのがうれしかったものです。ところが、JFL開幕から2試合目の富士通川崎戦で審判に暴言を吐いた(バカと繰り返したらしい)ため退場となり、4試合出場停止の処分。出場停止明け3試合目の徳島戦で再び退場、2試合出場停止処分。ついにアルシンドは6月11日に退団を発表。コンサでは出場わずか5試合、1得点で去ることになってしまいました…。決定力不足が語られる今のコンサからすると、本当に惜しい天才ストライカーだったと思います。

いったんブラジルに帰り、翌97年に再びヴェルディに戻り、16試合、10得点を挙げますが、往年の輝きは失われていたように思います。その後、テレビの「あの人は今」といった番組で、祖国で大農場の経営者として紹介されていましたが、今はどうしているでしょうか。蛇足ですが、アルシンド獲得のためにHFCがつぎ込んだ移籍金や年俸は相当な額だったらしく、巨額の累積債務をもたらし、経営難が長く続く一因ともなったようです。

写真のカードは鹿島とヴェルディ時代の上段がカルビー、下段がJカード。コンサでは球団配布カードがあったようですが、残念ながら私は持っていません。



ハーフナー・ディド

2006年03月19日

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思い出話も尽きてきましたので、今後はたまに新コンテンツ「思い出の選手」も始めます。思い出とといっても、一方的な片思いですけどね。トレーディングカードのコレクションがある選手はそれも添えて紹介します。

第1回はディドです。私にとっては文字通り「守護神」と思った最初のGKです。コンサにはJFL時代の1997年とJリーグに昇格した98年に所属、98年はリーグ戦全試合出場を果たしています。1957年生まれとほぼ同年代のおじさんとしては、40歳を過ぎてもプレーしている姿にただただ感動していました。ディドといえば、いつも一番後ろから叫んでいるというか、怒鳴っているイメージ。前線の選手たちをいつも叱咤激励、鼓舞していましたね。忘れられないのは97年5月25日の川崎F戦。テレビ観戦でしたが、1点を追う展開で後半44分、コーナーキックで自陣ゴールを空けて相手ゴール前で攻撃に加わり、その気持ちが奇跡の大逆転劇につながったと信じています。生観戦で見たのは2試合しかないのですが、ああいう魂を今後のコンサにも受け継いで行ってほしいと思います。

余談ですが、引退後は岡田監督の下、GKコーチを務めました。宮の沢を初めて訪れた際、練習開始前に一番早く姿を現し、黙々と走っていました。思わず「ディド!」と声をかけ、手を振ると笑顔で手を振ってくれました。「いい人だー」と心に刻みました。でも、岡田監督が去った後もGKコーチを続けましたが、J2降格が決まった2002年限りで退団。翌03年から岡田監督の下、横浜FマリノスのGKコーチになってしまいました。ディドが去るとともに、コンサユースU-15で大活躍した息子のマイクもマリノスユースに移籍してしまい、今季、トップチームに昇格しました。194センチの長身で、かえすがえすもコンサでは過去にいなかった電柱系FWになれたのに、と残念でなりません。

このカードは98年のJカード。前所属の名古屋や磐田時代のカードは結構ありますが、コンサ時代のカードはこの1枚だけのようです。