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ブログタイトルは「真栄パパの思い出語り」から2014年2月に「習慣コンサ」に改め、さらに2022年1月1日から「毎日コンサ」に改称しました。「毎日が日曜日」なので、毎日、コンサドーレのことを考え、書いていきます。 気持ちだけは熱いですが、体がついていかない老年(2018年、還暦に突入)のぬるサポです。 北空知の秩父別町生まれ。札幌市清田区真栄に自宅があります。

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月刊コンサドーレとコンサドーレマガジン

2005年12月23日

コンサドーレ札幌のオフィシャルマガジン「月刊コンサドーレ」(北海道新聞社発行)は創刊号の2001年3月号から定期購読しています。最寄りの道新販売所に頼んでいるので、だいたい発売日の前日までに確実に届き、買い忘れることもなく、助かっています。もともと整理整頓の苦手な方なのですが、これだけは公式グッズのローリングファイルを購入してきちんと整理しています。あの厚さで350円はちょっと高い気もしますが、1冊につき25円がHFCに還元されるのだから、良しとしましょう。こうしたチームの月刊誌が続くこと自体に感謝しなければならないでしょうから。

というのは、この前にオフィシャルマガジンとして「コンサドーレマガジン」(イエローページ発行)がありました。残念ながらJ2降格が決まった1998年シーズン終了とともに休刊(もう復刊することはないでしょうが)となってしまいました。詳しくはコンサの百科事典ともいえるHPのコンサ・デ・コンサで調べていただくことにして、私がこの存在を知ったのは実は休刊後。確か休刊の翌年春に初めて丸井今井のシースペースに行き、「こんなのが出ていたんだ」と知ったのです。早速、本屋で探したところ、見あたらず、イエローページに電話してみて休刊を知り、がっかりしたのを覚えています。ですから、月刊コンサドーレの発刊はうれしかったですよ。

そのコンサドーレマガジンですが、今手元に22冊あります。実は比較的近くに本州系の新古書店が開店し、雑誌のコーナーを見ていたら、なんと第1号から計16冊が1冊50円で売っていたのでした。興奮しながらレジに走り、電光石火の速攻で買いました。家に帰ってカミさんに「やったーー!すごい収穫だった、こんなことは2度とないぞ!」と興奮冷めやらず、歓喜の報告をすると、「バカみたい」とひとこと。ほかにヤフオクなどで安く6冊ゲットし、残りは8冊ぐらいでしょうか。ぜひとも全冊そろえたいと思っています。



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11:12

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トレーディングカード

2005年12月17日

本宅でも書きましたが、コンサドーレ関係のトレーディングカード(トレカ。ポケモンカードとかが有名ですよね)を集め始めたのは2003年夏からです。最初はヤフーオークションでコンサグッズを探していたところ、いろいろ出品されているのを見て、どんなものか試しに買ってみました。届いたカードを手にして、すっかりその魅力にはまってしまいました(まったくいい年したおっさんが、と自分でも思います)。
いまだに詳しくないのですが、通常、50円とか100円程度で売られているレギュラーカードのほかに、珍しいため高額となるインサートカード(キラカード)があります。コンサ選手のレギュラーカードはほぼそろいました。インサートは高いので、無理はしない方針です。
コンサに移籍してきた選手がいると、移籍前のカードも楽しみです。若いときの姿を眺めるのは楽しいですよ。最近の移籍組では、西谷が多数出ており、早くそろえたいと思っています。現在進行形の移籍では、早速、芳賀は2枚ゲット、野本は1枚入手しました。引き続き、探索中です。
実は集め始めた年の秋に、Jカードを発行しているベースボールマガジン社がチーム登録全選手をカード化する「チームエディション」を発売することを知りました。「これはすごい。ぜひコンサをコンプリート(全種類そろえること)しなくては」と張り切り、発売日をワクワクして待ちました。ところが、対象はJ1チームのみで、この年からJ2のコンサは当然、対象にならず、とてもがっかりしたのを覚えています。それ以後も毎年、チームエディションは発売されていますが、肝心のコンサが昇格できないまま。早く昇格してもらい、カードを集めたいと、心から願っています。



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16:23

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スカパー!

2005年12月10日

スカイパーフェクTV!に加入したのは、シーズンチケットと同じく2003年からです。それまでは地上波とBSでテレビ観戦していたのですが、民放とNHK合わせて大半を放映してくれたJ1と異なり、J2に降格して放送予定ががっくり減ったためです。
特にアウェイはほとんど見ることができなくなる見通しとなったため、シーズン入り前から大蔵省(今は財務省か)のカミさんと予算折衝を続けていたのですが、なかなか許可が下りません。そのままシーズン入りしてしまい、家族全員で参戦した3月15日のホーム開幕戦は横浜FCに1-3で完敗。それでも、カミさんは「山形に勝ったらね」といい、3月22日アウェイの山形戦に運命は委ねられました。ラジオ放送で応援していると、2点を先行。これは楽勝と思っていたら、終盤に2点取られ、終了間際に曽田の決勝ゴールで逃げ切りました。同点に追いつかれたころから、私は目をつぶり、両手の指を組んで祈っていたらしく、「その姿に免じて、スカパーいいよ」と許可が下りました。
早速、すぐに近くの電気店に走り、注文。確か翌日には付けに来てくれたはずで、山形戦も録画中継で見ることができました。何かいろいろキャッシュバックがあり、初期費用は1万円もしなかったはずですが、その後、HFCのホームページから注文すると、HFCにもプラスになるうえ、コンサドーレのマーク入りのパラボラアンテナにできたことを知り、「しまったあ」と後悔したものです。
一時、映画のチャンネルも契約していましたが、今はJリーグセットと娘2人の費用負担によるディズニーチャンネルのみ。最初の年こそJ1から降格したばかりで人気チームとあって大半が生中継だったのですが、成績低迷の昨年からは録画中継が増えて残念です。来年は生中継が増える活躍を!と期待しています。



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21:32

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シーズンチケット

2005年12月09日

シーズンチケットを買い始めたのは、2003年からです。
2000年に室蘭から札幌に転勤になったのですが、あいにく土・日曜は仕事が多い職場で思うように観戦できませんでした。その後の人事異動で、2002年半ばから週末は休みやすい職場に変わり、いよいよ観戦熱が高まり、翌年からシーチケにしたわけです。一応、大蔵省(今は財務省ですか)のカミさんからは、私の2月の誕生日プレゼントとして購入が許されたのです。
手元に残してあるシーチケを見ると、2003年は洋平、健作、今野、相川の顔写真が使われています(相川以外は残っていません…)。それに比べ、昨年と今年のはちょっと手抜きのデザインではないかと。
今考えると、J2に落ちてから購入しているわけで、喜びよりも悲しい思い出の方が多かったかもしれません。来年も購入するつもりですが、喜びが多いシーズンであってほしい、と願っています。

ところで、話は変わりますが、「シーズンチケット」という英国映画を知っていますか。悪ガキ2人が大ファンのニューカッスルのシーチケを手に入れようと悪戦苦闘する話ですが、粋なラストシーンが用意されています。サッカーが登場する英国映画はなかなか面白いですよ。



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22:23

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B自由席

2005年12月03日

私が座る場所は、ホーム側のB自由席です。
ここに位置を定めるまで、結構、さまよいました。最初に観戦したのが室蘭だったので、当時は最も安い席はゴール裏のほか、バックスタンドの芝生席もB自由で、芝生席は寝転がることもでき、非常に見やすい席でした。そのころはゴール裏のあの熱気の中には身を置くことはできないと思っていました。厚別や札幌ドームで見始めたときもアウェイ側のB自由に座ったり、もらった券でいい席に座ったりもしましたが、そのうちに思い切り声援したいと思うようになり、ホーム側に座りました。そのころはまだJ1で、ゴール裏も今より熱気にあふれ、コールや応援歌を歌うと感動して目頭が熱くなりました。以来、ホーム側B自由席住まいですが、立ち席の熱烈サポーター席ではなく、両端1ブロックだけある座り席のうちメーンスタンド側の前の方にまったり座っています。コーナーフラッグの近くですね。立ち席は、友達が来れなかった下の娘につきあって一度だけ座り、いや立ちましたが、あとで筋肉痛に苦しんだ中年おやじは次から座り席に戻ったのでした。
札幌ドームができた年はJ1で人気も高かったことから、チケットが売り切れたり、前の方の席に座るには並ばなければ無理でした。今ではガラガラで、試合中でも空席が目立つようになりました。隣の立ち席もスカスカで、立たずに座っている人もいるようです。あのゴール裏が熱気に包まれた日々がまた来ることを信じて、応援を続けましょう。

ところで、今日は家族4人全員で観戦です。全員参加は昨年の最終戦以来、丸1年ぶりですね。でも上の娘とカミさんはSA席、下の娘は友達と立ち席、結局、私は1人で定位置です。来季につながるよう力いっぱい応援し、そしてチームを去る選手に別れを告げたいと思います。



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10:37

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初めてのグッズ購入

2005年12月02日

初めて購入したコンサグッズは1998年4月4日、室蘭市入江運動公園陸上競技場で初観戦したガンバ大阪戦でメガホンでした。娘2人にそれぞれ買いました。当時はチアホーンこそもうなかったのですが、まだメガホン全盛で、とりわけこの年、Jリーグに昇格したコンサはメガホン率が高かったようで、対戦したチームの選手が「やたらメガホンの音がうるさかった」といった趣旨のことを話していたのを覚えています。今でもメガホンは売っていますが、応援は肉声と拍手が中心になりましたね。

次に買ったのはやはりタオルマフラーだったと思います。競技場に通う回数が増えるに連れ、グッズ類もどんどん増え始め、いつのまにかコレクターのようになってしまいました。とりわけトレーディングカードはヤフオクなどを利用して集めています。HFCも最近は競技場限定だの、変身ドーレくんなど、マニア心をくすぐるグッズを次々に発売し、なかなかあくどい商売上手になったものです。

さて、そんなビョーキの夫にカミさんもあきれ顔ですが、2003年暮れにファンクラブ会員限定の「スーパービッグドーレくん」が届いた際には夫婦関係が一時険悪化しました。全長120センチ、1万5000円もした究極のぬいぐるみは現在、仏壇の隣に鎮座しておりますが、飼い犬も最初はおそろしかったのか、近寄れませんでした。その後、カミさんの怒りも沈静化し、なんとか離婚されずに今日に至っています。

さて、明日の草津戦、ファンバナ買わなくちゃ!



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15:16

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100万本フラッグ運動

2005年12月01日

「100万本フラッグ運動」って知っていますか?
サポーターズ持株会が2001年春から呼びかけを始めたもので、コンサ・デ・コンサによると、「コンサドーレの試合のある日に、自宅の玄関先などにチームフラッグを掲揚して貰い、コンサドーレを応援する気運を広げようというものです」。私もこれに賛同して、すぐに掲揚を始めました。ただし、最初は競技場内で売っている「小」と「中」の旗でした。これでは目立たないので、その年のうちに丸井今井のCスペースへ行って「大」を購入(確か3000円くらい)。ついてくるプラスチック製のポールでは短いので、カミさんが物干し用?の金属製ポールをホーマックで買ってきてくれ、運動会で使うパラソルを立てる台に立てるようにしました。
いやー、目立つ、目立つ。清田区真栄には1999年夏に引っ越してきて、その2年後だったのですが、近所の人たちや犬の散歩仲間から「コンサドーレにお勤めなんですか?」とずいぶん聞かれたものです。今も試合の日は(雨や風が強い日は玄関内ですが)家の前に掲げ、必勝を祈願しています。
できることなら、コンサの試合の日は競技場のそばはもちろん、札幌、そして北海道中が旗がなびくようになってほしいと願っています。さあ、あなたも掲げてみませんか。

話は変わりますが、11月28日のアクセスランキングで何と100位に入りました! 最近、記憶力が衰え、備忘録代わりに始めたような中年おやじの自己満足ブログなのに、わざわざ見ていただき、感謝感激です。どれだけ続くのか、心許ないのですが、これからの励みにしたいと思います。



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22:10

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後援会、ファンクラブ、持株会…

2005年11月28日

コンサドーレ札幌の北海道後援会に入ったのは1999年からです。前年12月5日のJ1参入戦で敗れた際にサポーターになる決意をしたのを受け、翌年、加入したわけです。ファンクラブに入らず、後援会にしたのは、会費のほぼ全額がチームに役立てられるからでした。以後、毎年、1口だけですが、更新しています。ただ、後援会は加入していてもほとんど特典がなく、会員も減少しているらしいです。児玉社長がブログに書かれているように、もう一度、何か魅力、付加価値をつけて立て直してほしいと思います。

ファンクラブ加入は遅く、2002年からです。最初、ファンクラブなんてミーハーぽいっかなと思って入らずにいたのですが、チケット購入などで利点が多いため、遅ればせながら入りました。家族4人全員の家族会員です。今では立派なミーハーで、こんなことなら早く入っていればプレミアムメンバーになれたのにと、後悔しております。ちなみに上の娘は吉原宏太ファンのため、1999年の1年だけ加入していました。

サポーターズ持株会は、エメルソンの移籍金をと2000年末にあった募集に、1口だけですが、出資しました。見返りを期待して出資したサポは少ないとは思いますが、債務超過の会社では紙くず同然です。2004年からはパーソナルスポンサーにも入っています。こうしてみると、HFCもサポから搾取するべく、なかなか知恵を絞っていますね(^_^;)



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16:26

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レプリカユニホーム

2005年11月27日

初めてレプリカユニホームを購入したのは、2002年でした。カミさんが応援に熱の入る夫を見かねて、私の2月の誕生日プレゼントとして買ってくれたものでした。コンサとしてはオーソドックスな赤黒の縦縞で、スポンサーは前が白い恋人、後ろがサッポロビール。この赤黒縦縞が一番見慣れていて好きですね。着なくなった今も大事にしまってあります。東芝時代に監督だった石崎さんによると、ACミランをまねしたのが始まりとか。
1シーズンだけではもったいないので、翌年も、翌々年も、結局、3年使いました。この2年間のレプリカのデザインが好きでなかったこともあるのですが。さすがに3年着ると、毛玉ができたり、かなり傷んできました。そこでやむなく今年、レプリカを買い替えました。そう、あの赤黒縦縞でなく、ほとんど赤に背中にトラックにひかれた跡と酷評されたやつです。しかも襟がありません。これでは、後で発売されたイージーレプリカやらTシャツでも良かったかなとがっかりしていました。

まだ正式発表はないようですが、一部報道によると、オフィシャルサプライヤーがadidasからKappaに代わり、赤黒縦縞が復活するそうです。今年のレプリカは1年しか着ていないので、もったいないのですが、赤黒縦縞になるなら、来年も買おうと思っている。

なお蛇足ですが、大学ラグビーは赤黒横縞の早稲田を応援しています。ただ、最近のフォワードで勝負するのはワセダらしくない。メイジみたいであまり好きではありません。ちょっとラグビー観戦熱は冷めています。



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20:50

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初めての厚別

2005年11月22日

記憶が少し怪しいのですが、初めて厚別競技場で観戦したのは2001年10月27日のサンフレッチェ広島戦だったはずです。
J2で優勝して昇格を決めた2000年は室蘭にいて春に有珠山噴火に遭遇、秋に札幌へ転勤と忙しい1年で、しかも土・日曜の仕事が増えて1試合も生観戦できませんでした。ですから、「厚別不敗神話」をテレビさじきで見て「いいなあ、見に行きたいなあ」と思っていました。
初めての厚別は確か平日のナイト試合。たまたま仕事を早く切り上げられ、職場から厚別に駆けつけ、つてでSS席に座りました。播戸、ウィルの得点で先制、リードしながら、不可解な判定によるPKなどで追いつかれました。しかし、すぐにウィル、播戸と勝ち越し、突き放すゴールで快勝しました。良かったなあ。

実は清田区にあるわが家から厚別も札幌ドームも公共交通機関といえば、バスになります。厚別はバス停から遠く、本数も少なく不便です。そこで自転車にしてみると、15分余りで着き、とても便利です。ドームだと25分くらいでしょうか。今では厚別観戦といえば、娘たちとも自転車で通っています。

不敗神話が消えてしまった厚別ですが、いつの日か、神話が現実として復活することを心から願っています。



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22:53

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初めてのサイン

2005年11月20日

わが家でコンサドーレ選手から最初にもらったサインは1999年、吉原宏太でした。
当時、人気がブレイクし始めていたコータの笑顔に上の娘がやられてしまいました。当時住んでいた室蘭に練習に来て、本人は学校で行けないので、カミさんに頼みました。カミさんは小学生の下の娘を連れて練習会場に行き、本人を必死の思いで追いかけて色紙にサインをもらってきました。私が希望した岡ちゃんのサインはコータを追いかけるのに忙しく、もらいそこねたのでした。その後、コータはコンサを去り、ガンバ大阪に移籍してしまいましたが、上の娘にとってはいまでも特別な存在なようで、サインは宝物として自室に飾ってあります。そういえば、この前年、いまはなき横浜フリューゲルスが合宿に室蘭に来て、室蘭大谷高出身の佐藤尽らがサイン会を開きました。上の娘は当時、まったく興味がなく行かなかったのですが、後にコンサに来た尽のファンになるとは知るよしもありませんでした。
その後、札幌に引っ越したのですが、清田区ですので、宮の沢はなかなか行けませんでした。そのうちに宮の沢のほかに、清田区にある白旗山や札幌ドーム練習場で練習するようになり、カミさんと上の娘が何回か通って、たくさんの選手からサインをもらいました。私や下の娘も回数は少ないですが、少しサインをもらったことがあります。
こうして集まったサインはわが家の家宝として、階段の壁に飾ってあるほか、色紙ホルダーに大事にしまっています。いつの間にか、いい年した中年おやじがすっかりミーハーになっているのでした。



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16:04

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テレビ観戦

2005年11月19日

道産子の私は、以前からビールならサッポロビール、ウィスキーならニッカなどと、できる限り北海道ゆかりの商品を買うようにしていました。スポーツでも北海道のチームを応援しています。
コンサドーレ札幌は1996年に北海道初のプロスポーツチームとして誕生したので、当然のようにかげながら声援していました。ただし、98年に生観戦するまでは、テレビ観戦するだけでした。

そんな中で興奮して見たのが、JFLだった97年5月25日の川崎フロンターレ戦。職場でつけっぱなしのテレビで、仕事の手を休めながら見ていました。88分に1点を奪われ、1-3の絶体絶命。これはダメだろうと思っていたら、ロスタイムにバルデスが連続ゴールで何と同点。延長戦もバルデスのVゴールでついに勝ってしまった。ロスタイムの1点目が入ってから、私は完全に仕事をさぼって、テレビの前にかじりつき状態。いやー、この試合を厚別で生で見た人は幸せですよね。

もう1試合、忘れられないテレビ観戦を挙げると、J2だった2000年7月29日の浦和レッズ戦。0-1から田渕の同点ゴール、そして86分、インターセプトから自らオーバーラップした大森の逆転ゴール。テレビの前で叫んでいました。いまでもこの2ゴールはまぶたに浮かぶようです。これも厚別劇場でした。厚別不敗神話が懐かしいなあ。

これ以後はやはり生観戦の興奮の方が上回り、できる限り競技場に足を運ぶようにしています。



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22:02

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下の娘の初観戦

2005年11月18日

下の娘は現在、中学3年生。前に初観戦で書きましたが、家族そろって初めて観戦した1998年当時は小学2年生。サッカーなんて知らない子供でしたから、飽きて前半だけで出てしまった。その後は長く遠ざかっていたのですが、J1だった2002年11月30日、札幌ドームでのシーズン最終戦を私と2人で観戦することになりました。なぜ本人が行く気になったのかは忘れましたが、チケットがたまたま余っていたからかもしれません。

相手はともにJ2に降格するサンフレッチェ広島。壮絶な戦いでした。
序盤に小倉が先制するも、立て続けに3失点。なんとか追いついたら、また失点。終了間際にソダンが同点弾を決め、延長に。そして、勝負弱かったコンサドーレがソダンのハットトリックとなる3得点目で、ノーガードの打ち合いにようやく終止符を打った、あの試合です。途中、相川が、下田に代わって途中出場した相手GKと交錯する場面もあり、日頃お上品な父娘が「うちの相川になにすんだ!このボケッ!」と叫んでいたのを覚えています。その際に、憎っくき相手の「林」という名前を脳裏に焼き付けましたが、まさかコンサに来るとは思ってもみませんでした。林、今は応援しているよ!

翌年、中学に進んだ下の娘は長女よりも試合に通うようになりました。「あんな、すごいものを見たら、やめられないって」と言います。学校で見つけたサポ仲間と一緒に立ち席ではねております。座ってまったり観戦している父親としては、ちょっぴり寂しいのですが。



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23:36

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コンサポはいい人だ!

2005年11月12日

確か2001年の秋だったと思う。当時、土・日曜は仕事で休めないことが多かった。その日はたまたま休みとなり、急きょ、自転車に乗って20分足らずの厚別に駆けつけた。前売りを買っていなかったので、チケット売り場に向かうと、赤黒のレプリカを着た初老の男性が私を呼び止め、「連れが来れなくなったので、これ使って」とB自由席のチケットを差し出した。突然のことで「えっ、それはどうもすみません」と口ごもりながらお礼を述べると、その男性はスタスタと歩き去ってしまった。その際にきちんとお礼できなかったことが、いまでも心残りとなっています。この場を借りて、あらためて感謝の気持ちを述べさせていただきます。
そのほかにも中年女性から「余ったので」と必勝弁当をもらったり、手作りの料理をおすそ分けしもらったりしたことがあります(もらってばかりですね…)。

私は1人か家族と行くのがほとんどですが、そこで知り合うコンサポの皆さんの温かさにいつも感心しています。もしかすると、選手やチームよりも、あったかいコンサポが好きなのでは、と自分でも思うこともあります。Jリーグの調査でも年齢層が高く、女性が多いのがコンサポの特徴のようですが、たとえ将来、どんなに常勝チームに育っても、コンサポはいつまでも温かいままで変わらないでいてほしいと願っています。



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18:42

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サポになる決意をした日

2005年11月11日

1998年12月5日、その日を忘れることはないだろう。
この年、Jリーグにデビューしたコンサドーレは第1ステージで18チーム中16位、第2ステージ10位と健闘した。ところが、翌年スタートのJ1には16チームしか進めない。下位4チームとJFL優勝チームで3席を争うJ1参入決定戦が行われた。コンサドーレは本来、関係ないはずが、前年の成績を加算する不可思議なルールにより、参加するはめとなった(いまだにJリーグのこのやり方には賛成できない)。
神戸に2連敗し、福岡にもアウエーで敗戦。いよいよ後がなくなった。チーム創設以来、「おらが北海道のチームだから」とテレビ観戦で応援する程度だったが、当時は室蘭に住んでいて、居てもたってもいられず、スキーウエア上下を着込んで雪の舞う室蘭市入江公園陸上競技場に駆けつけた。
が、応援むなしく0-3。惨敗だった。この時、残留を果たした市原、神戸、福岡はリーグ戦途中から参入戦に照準を合わせていたとしか思えない。

雪のピッチにがっくり崩れ落ちる選手たち。しかし、J2降格を責めるような罵声はなかった。それどころか、「コーンサドーーレ!」という温かいコールが続いた。何度も、何度も…。就任が決まっていた岡田監督に期待して「岡ちゃんとJ1に上がろう」という声援も飛んだ。
思わず目頭が熱くなり、心の奥底から誓った。「今は弱いこのチームを支えて行こう」と。



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19:24

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不勝神話の終焉

2005年11月07日

うちのかみさん(妻)はあまりサッカーが好きではありません。ほとんどビョーキになってしまった夫につきあって、たまに見に行く程度です。
最初の時に書きましたが、初観戦は夫と同じ1998年4月4日、室蘭でのガンバ大阪戦。せっかくの勝ち試合なのに、飽きた子供をあやしに後半から帰ったのが運のつきでした。次に観戦した翌99年3月28日、室蘭でのJ2・鳥栖戦はVゴール負け。以来、鳥栖嫌いです。ちなみにこの時の鳥栖サポーターは2人しかおらず、敬意を表するとともに、妙に悔しかったのを覚えています。
以後、なぜか観戦すると、勝てません。とりわけ、札幌ドームで初めてシーズン開幕戦を迎えた2003年3月15日は気合を入れて家族4人総出で行ったのですが、なんと横浜FCに3失点。かみさんは佐藤洋平のファンでしたので、洋平のがっくりする姿に気落ち。そのうちに、藤ヶ谷が正GKになったのもあり、「私が行くと負けるから、もう行かない」と言うようになってしまいました。昨年はドーム最終戦の大宮戦にサッポロビール様の抽選でSS席が当たり、家族4人で久々に観戦するも、開始直後の失点で敗戦しました。

今年も3月13日の鳥栖戦で敗戦から始まったのですが、8月13日に上の娘と行った厚別で仙台に逆転勝ちし、ついに初勝利の日を迎えました! 続いて8月31日に今度は1人で行った札幌ドームで湘南に勝ち、「勝利の女神(おばさんですが)」になりました! ホームの残り3試合で、かみさんは12月3日の最終戦に行く予定です。不勝神話に完全にピリオドを打ち、「勝利のおばさん」になるよう願っています。



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11:04

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初観戦

2005年11月06日

記念に開設しました!
実は別な場所でブログを始めたばかりですが、本宅は現在進行形で書いていくことにして、こちらは主にコンサドーレにまつわる思い出を書きたいと思います。

初めて生観戦したのは1998年4月4日、室蘭でのガンバ大阪戦で、Jリーグに昇格して初の道内開幕戦でした。当時、室蘭に住んでいて、家族ぐるみでつきあいのあった十勝の友人一家5人が観戦に来たので、わが家も4人全員で一緒に行きました。席はバックスタンドで、現在はベンチシートになりましたが、当時は芝生。ござを敷いて、寝転がりながら、まったり見ていました。ゴール裏の熱烈サポを初めて見て「ビョーキの人がいっぱいいるなあ」と思うのみで、まさか自分がだんだんビョーキになるとは夢にも思っていませんでした。そうそう、今と違って赤黒メガホンが主流の頃で、娘2人に買い与えてバンバンたたいて応援したものです。

さて試合の方は、浪速の黒豹ことエムボマが寒さにやられたのか早々と交代で引っ込み、われらがパナマの怪人、バルデス様のゴールにより1-0で見事勝利。うれしかったなあ。これがコンサのJリーグ初勝利でした。

ところで、かみさんは途中で飽きた下の娘(当時小2)や友人の息子2人を後半から外へ連れ出し、ゴールも勝利の瞬間も見ていません。ここから彼女の「不勝神話」は始まるのだった…(この項続く)。


post by 真栄パパ

12:11

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