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ブログタイトルは「真栄パパの思い出語り」から2014年2月に「習慣コンサ」に改め、さらに2022年1月1日から「毎日コンサ」に改称しました。「毎日が日曜日」なので、毎日、コンサドーレのことを考え、書いていきます。 気持ちだけは熱いですが、体がついていかない老年(2018年、還暦に突入)のぬるサポです。 北空知の秩父別町生まれ。札幌市清田区真栄に自宅があります。
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2023年07月14日
私が初めて厚別で観戦したのは2001年10月17日の広島戦でした。平日のナイトゲームで職場から駆けつけ、播戸とウイルのゴールでリードしながら、明らかな誤審のPKなどで一時追い付かれるものの、播戸とウイルがそれぞれ2点目を決めて4-2で勝ったことを覚えています。以来、可能な限り参戦し、選手たちやサポーターとともに喜怒哀楽を共にしてきました。2003年からはシーズンシートを買い、転勤中以外はほとんどの試合を観てきました。寒い日も暑い日もありました。雨風に震えたことも忘れられません。通算7年半、単身赴任したのですが、岩見沢と苫小牧はほとんど試合に通い、唯一、中標津に赴任した3年間だけは観ることができなかった試合が少なくなく、特に2009年8月5日の福岡戦で上里一将がハーフウェーライン手前から放った超ロングシュートを見逃したのが悔やまれます。この試合はカミさんに行ってもらったのですが、今でもロングシュートが話題になる度にカミさんに「上里の見たよ」と自慢されます。
喜怒哀楽と言っても、悲しい出来事もたくさんありました。観客席からピッチが近いため、負けが続いた時にサポーターから汚いヤジが飛び、選手と口論となったり、監督や強化部長を呼び出したり、興奮したサポーターが飛び降りたり、という暗黒時代がありました。それでも通い続けたのは、やはり喜びを選手、サポーターと分かち合えたからではないでしょうか。テレビ観戦では味わえない感動がそこにあったから通い続けました。
昨日の北海道新聞様朝刊に「聖地・厚別 思い出をありがとう。次に会えるのは3年後、新しい景色も、ともに。」というコピーの全面広告が載っていました。感動の日々を思い起こさせる写真が多数載っていました。3年後には新たな歴史を刻んでいくことでしょう。
明日は残念ながら雨の予想です。皆さん、雨具を忘れずに結集しましょう。そして、しばしの別れとなる厚別の姿を心に刻もうではありませんか。
2023年07月11日
8日の北海道新聞様に掲載された「厚別の風に吹かれて」と題した全面広告で、1996年から昨年までの厚別でのリーグ戦の全勝敗数が載っていました。209試合が行われ、112勝39分58敗と大きく勝ち越しています。それもそのはず、JFLだった96年は9戦9勝、Jリーグ昇格を決める97年は12戦12勝と全勝(当時は引き分けがなく、延長Vゴール方式だったはずです)で、「厚別不敗神話」が生まれたほどです。残念ながら私のこの頃、まだサポーターではなく、室蘭に勤務していたこともあり、厚別で初めて観戦したのは2001年10月だったはずです。厚別の戦績はこの頃の貯金が大きかったほか、札幌ドームではなかなか勝てなかった年も厚別では不思議と勝てたこともありました。
唯一、J1でぶっちぎりの最下位でJ2降格が決まった2008年だけは8戦で4分4敗と1勝もできませんでした。不敗神話に水を差す結果に終わっています。今季のリーグ戦は15日の新潟戦だけです。来年とさ来年は改修のため使用できませんので、ぜひとも1戦必勝で「厚別不敗神話」を継続させて改修期間に入りたいものです。頑張れ!コンサドーレ!!
2023年07月10日
明後日の天皇杯3回戦で対戦するのはヴェルスパ大分というJFLのチームです。今回、その名を初めて知りました。J2の大分トリニータを破って勝ち上がってきて意気上がる相手ですが、何としてもプロの意地を見せつけてほしいと願っています。
山橋貴史監督は札幌出身でコンサドーレにも1997~98年の2シーズン所属した元FW選手です。ただし、私がサポーターになったのは98年のJ1参入決定戦に敗れてからなので、名前だけしか知らない選手です。記録を見ると、97年は19試合出場1得点、98年は出場していません。その後、ベアフット北海道の監督を務めていた時に名前を見たことがありますが、日本代表ユース世代のコーチを経て、2021年からV大分を率いているそうです。どんなサッカーをするのか、まったく分かりません。J1の貫禄を示したいものです。テレビ放送もないので、SNSなどで探して応援したいと思っています。
97年と98年のコンサドーレオフィシャルガイドで小さく紹介されていました。トレーディングカードはコンサドーレではなく、3季所属したC大阪時代に4枚ありました。当時、Vゴール男と呼ばれ、最優秀選手に選ばれた写真を使ったカルビーカードが印象的でした。
思えば、現役選手引退後に指導者の道へ進んだ人も多数となりました。Jリーグで監督を務めた元所属選手は、コンサドーレで監督になった財前恵一さんをはじめ、高木琢也さん、渡邊晋さん、森下仁志さん、木山隆之さん、冨樫剛一さん、名塚善寛さんらの名前が思い浮かびます。ほかにもいらっしゃるかと思います。これだけ人材を輩出しているのも、クラブが歴史を刻んできたからこそですね。今の選手の中からもきっと進む人がいることでしょう。
2023年06月04日
いまだに昨日の劇的勝利に浮かれております。5回も歓喜し、4回も失望するという、まさに感情の起伏はジェットコースター状態で、あの興奮を引きずっていますね。
こんなに得点が入った試合を俗に「馬鹿試合」と言われます。ウィキペディアで調べてみると、「主に双方が3点以上を得た場合に使われることが多い」と説明されています。5-4ですから、その上を行くゲームでした。このスコアで思い出すのはJ1だった2002年に札幌ドームで行われた最終戦。すでに降格が決まっていたコンサドーレと、わずかに残留の可能性を残していた広島の戦いは4-4で90分で決着がつかず、当時のルールで延長戦に入り、99分に曽田がハットトリックとなるVゴールを決めて5-4で勝ちました。この試合は生観戦しており、やはり大興奮したことを覚えています。この時は延長戦なので、90分では初めてのスコアと思われます。
一方的にやられた記憶はたくさんあります。0-7の最多失点で2012年の鹿島と2018年の川崎があり2012年にはG大坂に2-7も)、圧倒的に惨敗が多かったですね。逆に最多得点は2019年の清水戦の8-0と、いわゆるサウジスコアで勝ったことがあり、1試合5得点はそれに次ぐ最多得点記録のようです。超攻撃的サッカーが実を結び、いわゆる馬鹿試合ができるようになったということでしょう。
ただ、昨日のヒーローインタビューで駿汰も反省の弁を述べていましたが、あまりに失点が多すぎます。優勝やACL出場を狙うような、本当に強いチームはあえてリスクを負わず、昨日の試合なら2-0、3-0で勝つような試合運びをするのが常道でしょう。しかし、ミシャサッカーは最後の最後まで守りに入らず、リスクを負って得点を狙い続けるものです。従って安定した試合運びができず、上位を目指すのは難しいと言わざるを得ません。それでも、永く続いた暗黒時代を知る者としては、得点が入る今のサッカーは楽しくて仕方ありません。勝ってほしいのはもちろんですが、まずは魅力的なサッカーを続けてほしいと願っています。
2023年06月01日
昨日、チーム最多の8得点を挙げている浅野雄也を取り上げましたが、実は8得点は昨季のチーム得点王だった青木亮太と同じゴール数です。まだシーズンの半分も終わっていませんから、どこまで得点数を伸ばしてくれるのか、楽しみです。また、金子拓郎も7得点で続いていますから、今季のチーム得点王争いはハイレベルな戦いとなりそうです。
ということで、歴代のチーム得点王がどうだったのか、調べてみました(引退した選手も敬称略)。クラブが創設された1996年はJFLで、初代チーム得点王は8得点の川合孝治でした。翌97年はバルデスが40得点でJFL優勝、Jリーグ昇格に導きました。初めてJリーグに挑んだ98年もバルデスが21得点を挙げましたが、あえなく初のJ2降格となりました。99年は吉原宏太が15得点、2000年はエメルソンが31得点のJ2得点王となり、J1昇格を果たします。01年はウィルが24得点でJ1得点王に輝き、初のJ1残留を果たしたものの、翌02年は小倉隆史の7得点が最多では降格もやむを得なかったですね。
J2の03年は堀井岳也が8得点、04年は清野智秋が9得点、05年は池内友彦がDFながら11得点、06年はフッキが25得点、07年はダヴィが17得点でJ1昇格へ押し上げ、J1の翌08年もダヴィが16得点で奮闘するもあえなく降格しています。
再びJ2の09年はキリノが19得点、10年は西嶋弘之、古田寛幸、内村圭宏の3人が5得点で並び、11年は内村圭宏が12得点でJ1昇格を決めました。J1の12年は古田寛幸の4得点が最多とあっては、またも降格しました。
J2の13年は内村圭宏が17得点、14~16年はいずれも都倉賢で14点、13点、19点でした。J1となった17年は途中加入のジェイが10得点で残留に大きく貢献。18年も都倉賢で12得点、19年は鈴木武蔵が13得点、20年に9得点だったアンデルソンロペスが21年も12点挙げ、J1得点王の勢いだったものの途中で中国のクラブへ移籍してしまいました。
こうして見ると、4得点がチーム最多得点だった2012年は年間4勝しかできず、まさに暗黒時代でした(ちなみに2008年も4勝でした)。2004年にはJ2最下位だったことを知らない世代も多くなってきたでしょうか。また、初期の頃は外国籍の選手に頼りきったチーム事情だったことがうかがえます。
今季は総得点数が32点と首位の神戸と並びトップを走り、ミシャ監督の「超攻撃的サッカー」が開花していると言えます。総失点がワースト3位なのが残念なところではありますが、1試合に2得点以上のペースで得点しているのは見ていても面白いですね。今季はまだ19試合あり、ルヴァンカップも天皇杯もあります。もっとたくさんの得点を見たいと願っています。頑張れ!コンサドーレ!!
2023年05月31日
広島から今季加入した浅野雄也は、1年目からミシャサッカーにフィットしたどころか、現在、チーム最多の8ゴールを挙げ、J1得点王争いで大迫(神戸)、ロペス(横浜M)に次ぐ3位となっています。従来の自己シーズン最多得点は2021年の6得点ですから、これほど活躍することを誰も予想できなかったのではないでしょうか。ちょうど月刊コンサドーレ6月号もクラブコンサドーレ情報誌135号も表紙に浅野を起用しています。
そういえば、背番号18は「古くは宏太や芳賀ちゃん、最近はチャナが付けた出世番号だったよな」と思い、歴代の選手を調べてみました(引退した選手も敬称略)。すると、チームが創設された1996年は足立恵蔵という、年寄りの私も知らない選手でした。吉原宏太は96年は38で、18は97年から3季付けていました。この時の印象が強く、最初の年も宏太が付けていたと思い込んでいました。2000年は1季だけ所属し引退した高木琢也、01年は山瀬功治が28から変更して1季のみ付け、翌年は10番に。続いて曽田雄志が02~03年に付けて、翌年から4番に。04年は河端和哉、05年は桑原剛と1季のみが続いた後、06年から12年まで芳賀博信が7季付け、これが最長ですね。引退した芳賀の跡を継いだのが深井一希で、13~15年の3季付け、翌年から8になっています。16年は増川隆洋が付け、17~21年はめんこいチャナティップですね。昨季はガブリエルシャビエルが付けました。こうして振り返ると、やはり期待の選手が付けることが多かったですね。山瀬や曽田、深井のように活躍してさらに若い番号に変更となった選手が多いです。果たして、浅野の背番号は来季以降、どうなるでしょうか。
2023年05月22日
「コンサ時々日常」さんのブログやネットのニュースで、G大坂の応援をリードしている団体が20日のホーム・横浜M戦で試合前に応援ボイコットを宣言し、応援しなかったとのことです。私はハイライトでしか見ていないのですが、太鼓など鳴り物はなかったものの、自然発生的にコールやチャントが歌われていたようです。試合後に選手たちがこの団体のメンバーと話し合い、次の試合から再び応援を再開することになったそうですが、ボイコットやその後の対応についてはG大坂サポーターの間でも賛否が分かれているようです。
よそ様の事情はよく分からないので、私が口をはさむべきではないことでしょうが、実はコンサドーレの歴史でも「応援自粛」はありました。「コンサ時々日常」さんのブログにコメントさせていただきましたが、年間4勝しかできず、5試合を残してJ2降格が決まった2008年11月8日の札幌ドームでの浦和戦でした。記憶が定かでない点もあるので、当時の資料を探したところ、私のお宝保存ファイルの中にウルトラス・サッポロ(US)が配布したA4判ちらし「このクラブと生き抜くために。-応援自粛協力のお願い-」が見つかりました。
実際、USの皆さんは試合が始まっても着席したままでした。それでも、US以外の1人の勇気ある若者が前へ出てトラメガでリードし、太鼓や鳴り物はなかったものの、有志がコールや拍手、そしてチャントを歌いました。私も応援に加わり、声を張り上げました。でも、約2万9000人の総入場者数のうち、浦和は大挙8000人が南側ゴール裏を埋めたのですから、ホームジャック状態だったように覚えています。ただ、浦和側も確かACL連覇を逃した当時の監督を批判して大ブーイングしたり、チャントは封印してコールのみだったような気がしますが、かなり記憶があやしいです。この辺は記憶違いがあるかもしれませんので、覚えている方がいらっしゃいましたらご指摘ください。
このほかにも、おぼろげな記憶では、いつの試合かは忘れましたが、試合開始前のコール、チャントをやめ、キックオフから本来の応援開始したことがあり、この時も「応援されなくなるぞと、選手やクラブに危機感を持ってもらうため」と説明されていたように思います。
応援自粛にはさまざまな意見があるでしょう。自粛するのも勝手ですが、私個人としてはあくまでも応援するために駆けつけているのですから、選手たちが90分間、戦っている間は全力で応援したいと考えています。選手やクラブが苦しい時にこそ応援するのがサポーターだと信じています。ただし、全力で応援したあと、試合後にブーイングするのは叱咤激励の意味で「あり」だと思っています。私はしないと思いますが。2008年の応援自粛も今思えば、長く続いた暗黒時代の一コマにすぎません。J1定着をほぼ果たしつつある現在、幸せをかみしめつつも、コンサドーレはそんな黒歴史を二度と繰り返さないよう選手・スタッフ、チーム、クラブ、そしてサポーターが心一つにして前へ進んでいきたいものです。
2022年07月03日
先日、カミさんが上の娘の部屋を断捨離のため片付けていたところ、何と吉原宏太さんの日本代表U-22時代のTシャツが出てきました。当時、上の娘はコータファンで、こんなTシャツまで買っていたんですね。知りませんでした。シドニー五輪のアジア予選ではケチャドバ状態でゴールを決めていたのを覚えています。五輪には出られませんでしたが。すっかりコンサドーレの応援からは卒業してしまっている本人に連絡すると、不要とのことで、私のお宝として殿堂入りさせることにしました。
吉原さんといえば、先ごろ、余市町長選に出馬すると報道され、その後、立候補を断念しています。ツイッター上でTOUYAGROUPというダーツ関係をメインとした会社に「期限付き入社」したことが出ていました。スポーツ報知で連載しているコラムにも復帰したようなので、今後も北海道で活動されるようです。また私たちと会える日もありそうですね。
2022年03月27日
先日、北海道新聞社様の最寄りの販売所から「観戦ガイド2022」が届けられました。私は一応、北海道新聞様と道新スポーツ様、「月刊コンサドーレ」を定期購読している読者ですので。毎年いただいているのですが、毎月もらっていたポケットブックが昨年春で廃止となっていたので、ガイドもなくなったのではと思ってしまいました。それでも販売所に問い合わせたところ、発行されていて「お届けします」とのことでした。B6判13ページに、コンサドーレの選手紹介や日程、クラブコンサドーレ、グッズショップ、オフィシャルファンサイト、スタジアム紹介など必要最低限の情報を漏らさず載せていますね。ということで、わが家にある歴代の観戦ガイドを調べてみました。すると、2000年以降はすべてありました。それ以前は残念ながらわが家にはありませんでした。よく見てみると、2000年版と2001年版はサイズが小さく「道新スポーツPR誌」と銘打っています。2002年版から現在の大きさになり「北海道新聞PR誌」とうたっています。さらに2010年版までは「Jリーグ手帳」と称してページ数も多く、2002年版は89ページもあり、2010年版でも69ページありました。対戦する全チームの選手名などまで網羅していたからでしょう。翌2011年版から「観戦ガイド」に改称、今と同じ13ページとなりました。経費削減のためでしょうが、発行を続けてもらえるだけでもありがたいことです。今後もよろしくお願いします。
2021年12月28日
18日のエントリーで公式グラフを紹介しましたが、その連想で公式ガイドブックについて取り上げます。わが家の本棚では公式グラフの隣に並べています。実はこれも退職後の整理作業により単身赴任時の書籍がようやく一緒となり、全部が初めて1カ所に集合しました。古い方から見てみると、クラブが創設された1996年から毎年春先に発行されています。私がサポーターになると決意したのは98年の降格決定からなので、ガイドブックは翌99年から購入するようになりました。それ以前の96~98年の3冊はブックオフでお安く入手しました。調べてみると、サイズはA4判が通常ですが、最初の96年版はひと回り小さいです(裏表紙はあのハドソンの広告です)。また、初めてJリーグに昇格した98年版は唯一、A5判でした。発行元は2003年までは「コンサドーレマガジン」を発行していたイエローページで、04年から北海道新聞社様となり、現在に至ります。例年なら2月中に発行されますが、今年の発売日は3月6日で、2月27日の開幕戦に間に合いませんでした。来季はさらに開幕が早まるので、間に合わせるとすると編集作業は大変でしょうね。 写真の上はイエローページ発行の8冊、中と下は北海道新聞社様発行です。![]()
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2021年12月22日
もはや私のような年寄りしか知らないかもしれませんが、かつてJリーグでも毎年夏に「Jリーグオールスターサッカー」という試合が行われていました。札幌ドームでも2003年8月9日に1度だけ開催されました。現在、大量の本を断捨離中で、その時のプログラム(B4判の大判です)が出てきて思い出しました。ただ、すでに怪しくなった記憶では試合の日は私は仕事で、休みだった前日に公開練習を見に行き、試合は録画して後で観たように覚えています。
出場選手の顔触れは、残念ながらコンサドーレはこの年、J2だったため地元の選手は不在。元所属の吉原宏太(当時G大阪)がJ-WESTで出場しています。大半の選手がすでに引退しており、今季限りで引退した阿部勇樹(当時市原=千葉)、田中達也(当時浦和)、大久保嘉人(当時C大阪)らも出ていました。三浦知良(当時神戸)はまだ現役続行ですか。すごいですね。ちなみに2001年まで監督を務めた岡田武史さん(当時横浜M)はJ-EASTのコーチ、翌年に監督になる柳下正明さん(当時磐田)はJ-WESTのコーチでした。
オールスターは1996年から2007年まで、主にサポーター投票により選出し東西対抗で行われていたようです。その後、東西対抗に代わって一時、韓国Kリーグとの対抗戦を実施しましたが、そのうちに行われなくなりました。私個人としてはJリーグ人気を高めるためにも、ぜひ東西対抗のオールスター戦を復活させてほしいと願っています。今ならコンサドーレからも出場できますからね。
2021年12月18日
先日、15日に発売された「公式グラフ2021」を紹介しましたが、そういえば公式グラフはいつから発行されていたのか? と疑問に思ったので、わが家のコンサドーレ蔵書から調べてみました。すると、今の形の公式グラフとしては2011年、そうです、J1昇格を決めた年で「クラブ創設15周年記念号」とうたい、「J1復帰!」の大きな文字が躍っています。もちろん北海道新聞社様の発行で、各選手のクローズアップと全試合のプレーバックがメインで、その後の公式グラフの原型となったようです。おそらくこれが売れたのでしょう。以後、北海道新聞社様から毎年発行されてきましたが、2019年版だけは「ニュースファイル」と称して北海道新聞様の記事を基に構成したユニークな内容でした。2020年版は元の体裁に戻り、2021年版で大きな転換期を迎えて「月刊コンサドーレ」別冊に至ります。公式グラフの前史も振り返ってみます。初めてのJリーグ昇格を決めた1997年に当時、「コンサドーレマガジン」を発行していたイエローページによる「JFL優勝記念写真集 コンサドーレの瞬間。」があります。写真集と銘打つだけあって潔いほど写真ばかりで、読み物はほとんどありません。また、2度目の昇格を決めた2000年には、北海道新聞様が発行していた月刊誌「道新TODAY」別冊として「祝J1昇格記念号」が出ています。各試合の振り返りのほか、選手・監督の物語や厚別劇場、サポーター、コンサドールズなどさまざまな記事を満載しています。そして2001年には「月刊コンサドーレ」別冊として「J1戦記 勇者たちの弾道」が出ています。当時、退場後に坊主頭になった野々村社長も登場しています。さらに3度目の昇格を果たした2003年に「J1復帰への軌跡」が出され、後の公式グラフとほとんど同じ構成です。なお、これらの本はブックオフのサッカー雑誌コーナーあたりで見かけることがあります。
2021年12月14日
オフィシャルマガジン「月刊コンサドーレ」は2001年2月24日に創刊され、今年で21年目です。わが家では北海道新聞様の販売所から定期購読していて毎月の発売日に届けてもらっています。ですから買い忘れたりすることはなく、必ず発売日に届いています。通算7年半に及んだ単身赴任先でも異動先の販売所に頼んでいました。1年分をとじられるローリングファイルをシースペースなどで販売しており、これに入れて整理しています。先日、ようやく今年分を含め21冊を1カ所にまとめて置きました。単身赴任中に購入した書籍類は私がだらしないため元々あったものと合流できないでいて、ローリングファイルも分けて置いてあったのがようやく初めて集合させた訳です。入れた棚はカミさんが私のアナログレコードのコレクションを整理するために家具店に注文した嫁入り道具のボックスです。大量にあったレコードはすべて処分したため、空いていました。ちょうど良いサイズでした。下の写真の右端のローリングファイルは買いだめしてあるものです。
「月刊コンサドーレ」では今年9月号から「あれから20年 創刊の話」を連載しています。創刊当時の編集長が現在、再び編集長を務めているそうで、創刊当時の裏話が書かれていて面白いです。とりわけ創刊号の幻の表紙案や題字案が披露されていて興味深いです。また、明日15日発売の「公式グラフ2021」はこれまでの北海道新聞社様の発行ではなく、「月刊コンサドーレ」の別冊として発行されます。別冊は創刊の年の「2001J1戦記『勇者たちの弾道』」以来の2冊目だそうです。昨年までとどう違のか、明日、確かめたいと思います。
なお、「月刊コンサドーレ」は毎月25日発売(曜日の都合で多少前後することがあります)で、定価は税込み366円。1冊につき25円がクラブに還元されます。サポーターなら必読です。
2021年12月08日
昨日、来年1月のキリンチャレンジカップに向けた日本代表に小柏が初選出されました。今朝の北海道新聞様によると、わがコンサドーレからは歴代5人目で、初選出は2019年の進藤亮佑(現C大阪)以来だそうです。小柏にはぜひとも出場し、得点して日本代表の歴史に名を刻んできてほしいと思います。
歴代の日本代表をあらためて調べてみました。第1号は吉原宏太(1999年コパ・アメリカパラグアイ大会出場1試合)。2人目は鈴木武蔵(2019年EAFF E-1サッカー選手権など出場7試合1得点。移籍後の2020年出場2試合)、3人目は菅大輝(2019年コパ・アメリカブラジル大会に初選出も出場なく、EAFF E-1サッカー選手権で出場1試合1得点)、そして4人目が進藤で、2019年キリンチャレンジカップに初選出も出場なしでした。また、田中駿汰は入団前の大阪体育大学所属で2019年EAFF E-1サッカー選手権出場1試合を果たしています。過去にコンサドーレが育てた選手で代表となったのに今野泰幸と山瀬功治がいますが、すでに所属選手ではありませんでした。
吉原を除けば全員が2019年以降、ミシャ監督の下で鍛えられたからにほかなりません。今後も次々と選手を育ててほしいと願っています。
2021年12月07日
1999年に誕生したJ2リーグは、Jリーグから初の降格となったわがコンサドーレとJFLにいた仙台、山形、大宮、FC東京、川崎、甲府、新潟、鳥栖、大分の10クラブでスタートしました。2021シーズン終了時点で、来季は札幌、FC東京、川崎、鳥栖の4クラブがJ1、仙台、山形、大宮、甲府、新潟、大分の6クラブがJ2で戦います。思えば、全クラブがJ1経験があり、川崎に至ってはJ1優勝4回を誇ります。なかなか優秀なクラブぞろいだったのではないでしょうか。ただ、鳥栖を除く全クラブが1度はJ2降格を経験しており、鳥栖だけはJ1に2012年に昇格して以来、1度も降格していません。わがコンサドーレも来季で6年連続になりますが、鳥栖を見習って、もう2度と降格することのないようにしてほしいと願っています。
なお、Jリーグが発足した1993年のオリジナル10は鹿島、市原(現千葉)、浦和、V川崎(現東京V)、横浜マリノス(現横浜Fマリノス)、横浜フリューゲルス、清水、名古屋、G大阪、広島でした。このうちフリューゲルスが98年限りで消滅(形式上は横浜Mに吸収合併)しています。鹿島と横浜Mを除くクラブはJ2降格の経験があり、とりわけ千葉と東京VはなかなかJ1に戻れずにいます。名門クラブが多い顔触れですが、明暗を分けたのはクラブの総合力なのでしょうか。
2021年11月24日
以前にもお伝えしましたが、6月の退職以来、絶賛断捨離中です。一番の強敵が大量の本です。大学時代以来、購入したものの読んでいない、いわゆる積読(つんどく)の本も多数ありますが、なかなか捨てることができず、死ぬまでにどれぐら読み終わるでしょうか。片付ける途中でつい手に取ってしまい、読み始めてしまうものもあります。「J2熱狂読本」(洋泉社編集部著)のそんな1冊です。わがコンサドーレもJ2にいた2015年の6月に刊行されています。「J2戦国時代、到来。」「激闘のJ2 16年を振り返る」などの章立てで、J2の魅力を紹介してます。コンサドーレでは、斉藤宏則さんによる野々村社長のインタビューが「『今度は一緒に勝とう!』と言い合える地域との絆」が載っています。野々村社長は「プロサッカーの本当の楽しみ方というのは、ただ単に試合を観るだけでなく、自らもクラブの一員となって、勝ったときは喜ぶ、負けたときは悔しがる。そうやってチームと感情を共有し、ともに成長、発展していくところにある」「サポーターというのは、クラブにとってのパートナーだと私は考えています。一緒に強くなり、喜怒哀楽をともにする仲間。そういう輪を広げていきたいです」などと熱く語っています。この方は就任以来、考え方がまったくぶれないですね。J1に昇格して5年目の今も変わりないですね。いつまで社長を務めていただけるか分かりませんが、できうるならばJ1優勝まで導いていってほしいものです。なお、この本のことに戻ると、当時の所属チームはいくつかはJ1に昇格する一方、J3に降格したクラブもあります。この明暗はどこでついたのか。J2にはもう2度と戻りたくないですね。
2021年11月11日
9日のエントリー「お引っ越し」でスーパービッグドーレくんが和室の床の間から追い出されたことを紹介しましたが、実は普通サイズのドーレくんも一緒に何体か居場所がなくなりました。やむなく階段上の壁のスペースに並べることにしました。これまではドーレくん以外のグッズも置いていたのですが、ドーレくんだけにしました。以前から置いているドーレくんはかなりホコリをかぶっていますけど。とても数が多すぎて並びきらず、同じドーレくんが何体か出てきたので、いくつかはご近所の方のお宅に婿入りさせることにしました。こうして見ると、以前は雪だるまドーレくんとか、ヒグマドーレくんとか、変わり種が多数ありました。ビールドーレくんもいますね。最近は普通のしかなく、少し残念です。あまりに増えすぎたので、カミさんからは新しいドーレくんの購入禁止令が言い渡されているので、これ以上は増やせないかもしれませんが。
2021年11月09日
6月5日のエントリー「さらば、BIGドーレくん」で2011年版のBIGドーレくんとのお別れを報告しましたが、今回、わが家内の大整理の結果、身長120センチの「スーパービッグドーレくん」が引っ越ししました。2003年の購入以来、これまでは和室の床の間に鎮座し、私は観戦に向かう前に手を合わせて必勝を誓っていました。この度、カミさんが床の間を復活させることを決意し、追い出されたスーパービッグドーレくんは、寝室で窓際に追いやられた私のベッドの脇に引っ越しました。足を伸ばして座るのが本来ですが、それだと低すぎるので、いすに座ってもらいました。これからはJ1優勝の夢を見ている私を見守ってくれることでしょう。
2021年10月15日
サッカー専門サイト「フットボールチャンネル」で興味深い記事を見ました。国際審判だった小幡真一郎さん執筆の「Jリーグ、審判が犯したしくじり事件5選」です。取り上げられた5試合のうち、ストイコビッチがイエロー2枚をもらい、主審からイエローカードを奪って主審に突きつけた映像はよく放送される有名なシーンですね。主審は小幡さんだったんですね。
コンサドーレ関係が2試合あります。いずれもコンサドーレ側が不利益を被った「被害者」と言えるかもしれません。1試合は1999年5月16日、厚別で行われたJ2第12節の仙台戦で、仙台の選手が44分に2枚目のイエローをもらいながら主審が別な選手と思い込みそのまま続行、ハーフタイムに確認して退場にしたそうです。3-0で勝ったようですが、この試合のことは見たかどうかも含め、まったく記憶がありません。
もう1試合は2001年5月3日、日本平でのJリーグ1stステージ第7節・清水戦です。2-5で大敗するのですが、問題は清水の5点目。FKで4点目を決めていたアレックス(後の三都主)が72分にもFKを直接たたき込んで決めてしまったのですが、実は間接FKだったんです。テレビ観戦していた私は実況や解説者が主審のポーズから間接FKと言っていたのに、決まってしまった後は誰も問題視せず、そのまま進行し、試合終了を迎えてしまいます。なぜゴールが認められるのか、不思議に思ったことをよく覚えています。これも主審は小幡さんだったんですね。以前は日本平は鬼門で、清水にこてんぱんにやられた記憶ばかりあります。それが2年前に8-0で勝利する日が来るとは夢にも思いませんでした。
なお、今回の記事は小幡さんの新刊「しくじり審判 失敗から学ぶサッカー審判の教科書」(カンゼン、1870円)から抜粋したものらしいです。面白そうな本ですね。
2021年10月08日
今でこそ試合のあった翌朝に必ずスポーツ紙を買い、A3のクリアファイルに入れて保存していますが、もちろん最初の頃からそうしていたわけではありません。手元に残っている最も古いスポーツ紙の紙面は昨日紹介した号外の翌日付の日刊スポーツです。Jリーグ昇格について1面で「札幌J バルデス祝砲2発 み~んな待ってた 2年目でつかんだV昇格」と報じたのをはじめ、2~3面、10面、13~15面と計7面も使った大特集となっています。実はこの紙面はもともと私が購入したものではなく、何年か後にサポ仲間からいただいたものです。そのサポ仲間の方は10年ほど前に病気で亡くなられたのですが、生前、集めていたサッカー雑誌の記事とスポーツ紙の紙面を私に託されたのでした。譲っていただいた時はそんなに重い病気とは知りませんでした。いただいたスポーツ紙の紙面はこの昇格時のほかは、岡ちゃんのファンだったので、岡田監督が指揮を執ってJ1で戦った2001年の初戦からラストゲームまでの主にニッカンと道新スポーツ様です。故人となったサポ仲間に代わって大切に保管しています。![]()
2021年10月07日
コンサドーレのお宝の山を絶賛整理中ですが、今日はその中で出てきた最も古い新聞の号外を紹介します。それは1997年10月22日の北海道新聞様の号外です。この年に転勤で室蘭に移り住み、室蘭入江競技場で試合をしているのは山手町のわが家にもサポーターの応援の声が聞こえてきたので知っていましたが、まだサポーターではなく、ついにこの年は観戦したことはなく、テレビで見る程度でした。この日は厚別でのナイトゲームで大分を下し、JFL優勝でJリーグ昇格を決めました。号外はその日にもらったのか、翌日だったか、はたまたもっと後だったのか、すっかり忘れましたが、まだサポーターではなかったのになぜか保存していて、後日、サポーターになった後、残していて良かったと思ったものです。この時は1年後に室蘭で悲劇に遭うとはまだ知らず、幸せな頃でした。
2021年10月04日
以前にも書きましたが、退職以来、コンサドーレ関連のお宝の山を鋭意片付け中です(ほとんどの物が捨てられませんが)。その中から、「白い恋人」36枚入りの缶からオルゴールが出てきました。電池式で、単三電池2本を入れ替えると、オルゴールサウンドが無事鳴りました。フランシス・レイの「白い恋人たち」、桑田佳祐の「白い恋人達」、そしてわれらが「赤黒の勇者」の3曲が選べ、光センサーにより明るいと鳴り出し、缶にしまいこむと鳴り止みます。いつ、どうやって入手したのかまったく忘れましたが、おそらく石屋製菓様が「白い恋人」とセットにして販売したのでは。分かる方がいらっしゃいましたら、ご教授願えれば幸いです。入っていた缶はホコリをかぶっていて傷みも目立ったので廃棄し、ルヴァンカップ決勝を記念したオリジナル缶に移しました。今後も大事に保管したいと思います。
2021年09月30日
クラブ最高顧問の石水勲さんを偲ぶネット上の記事などを読み、あらためて惜しい方を亡くしたとの思いを強くしております。 私の撮った写真の中にも各種イベント時に多数写っているはずですが、日付でしか整理していないため、どこにあるかほとんどが不明です。そんななか、唯一見つけたのが2019年5月4日に札幌ドームで行われた神戸戦は石屋製菓様によるスイーツマッチでした。石水さんの75歳の誕生日です。ハーフタイムにサプライズとして野々村社長が花束と背番号75のレプリカユニをプレゼントしました。正直に言えば、その時はやりすぎのような気持ちがしたのですが、今思えば、サポーターとしてはこのタイミングを逃すと石水さんに感謝を伝える機会がなかったので、良かったとしみじみと思います。![]()
同じ年の4月19日の道新スポーツ様はまるまる1面を使って、石水さんにコンサドーレの誕生から野々村社長招へいまでを振り返ってもらう特集を組んでいました。「サッカー専用スタジアムを持ちたいという夢も、まだ捨ててはいない(途中略)石水氏の大きな夢は、まだまだ道の半ばにある」と書かれていました。クラブや私たちはその夢を引き継いでいけるでしょうか。天国から見守ってくれるでしょう。
2021年09月23日
昨日、サポーターズ持株会の会員証を紹介しましたが、持株会の現状を調べてみました。
持株会の出資額は2001年の増資により総額5億円に達し、資本金総額の約20%を占め、筆頭株主になりました。サポーターが筆頭株主の市民クラブは当時、J2の横浜FCを除けば、J1では初めてでした。その後、2008年の80%減資を経て、2008年と2012年の追加出資により、2012年末の出資総額は3億1160万円となり、持株比率は35・6%に達し、長く筆頭株主が続きました。その後、2017年に石屋製菓様とダイアモンドヘッド様への第三者割当増資により、持株会は第3位となりました。さらに2018年に進学会ホールディングス様への第三者割当増資により、第4位となりました。昨年末時点で資本金の総額は12億8715万9000円で、持株比率は石屋製菓様42・4%、ダイアモンドヘッド様18・9%、進学会ホールディングス様9・5%、持株会8・9%、博報堂DYメディアパートナーズ3・4%の順となっています。一時の経営危機は乗り切るのにサポーターの力に頼るしかなかった面もあり、そういう意味では現在の出資状況は健全化したとも言えるかもしれません。ただ、それぞれの出資企業にもいろいろの事情があるでしょうし、再び深刻な債務超過に陥るなど万が一の場合はサポーターズ持株会が支えたいものです。
なお、持株会は2012年以降、新たな追加出資(会員募集)はしていません。会員権の売買を「持株会売りたい・買いたい申込み」のページであっせんしてくれています。ただし、「買いたい」という人が多いものの、「売りたい」という人が少なく、1年以上待つ状況とか。私も命ある限りは売る予定がありません。コロナ禍で厳しい経営の強化のために追加出資をそろそろ考えてもよろしいのではないでしょうか。
2021年09月22日
コンサドーレのお宝の整理作業を進めるなかで、大量の資料の山の中から「サポーターズ持株会」の会員証が出てきました。持株会は1996年のクラブ創設とともに市民、道民による支援組織として発足し、初期の頃は毎年、1口5万円で出資を募集していたようです。私が会員になったのは2001年です。J1昇格を決めた2000年暮れ、J1で戦えるように、実質的にはエメルソンの移籍金を目指して出資津を募集したのに応募しました。この1口5万円は2008年に債務超過解消のために1口1万円に80%減資が実施されました。同じ年に新規出資を呼びかけ、私も2度目の出資をしました。さらに2012年に再び債務超過解消のために出資の呼びかけがあり、3度目の出資となりました。 持株会は会員個人に配当金はなく、唯一、無料招待券がもらえるだけです。また1株株主とも違って、株主総会には理事長が代表して出席し、議決権も理事長が行使することになります。それでも、私たちに感動と喜び(たまに悲しいこともありますが)を配当してくれています。せっかく出てきた会員証ですので、大切に保管しておきます。
2021年09月20日
無職生活になってからカミさんの厳しい監視の下、コンサドーレコレクションの整理に取り組んでいます。カミさんからは断捨離を迫られていますが、そうそうお宝を処分できるはずもなく、どのように飾り付けるか、頭を悩ませています。そうした中で出てきたのがミニカーです。下の写真の手前からJR北海道バス様のコンサドーレ号のチョロQ、次がJR北海道がペインティングした特急「北斗」のチョロQ、そして奥がJR北海道バス様の「コンサドーレ札幌号」のオリジナルサウンドバスです。整理が苦手な私はそれぞれ別な場所にしまっていて、3台が一堂に会したのはこれが初めてです。発売された時期をコンサドーレのウィキペディア、コンサdeコンサで調べたところ、チョロQの二つは2002年、サウンドバスは2012年でした。そんなになるんですね。それでも、チョロQはちゃんと動きましたし、サウンドバスはスタジアムでのグッチ-さんの音声や、「赤黒の勇者」などの応援歌(CD「妙なる天空の音色」より)が収録されていて、天井のボタンを押すと、なんとまだ鳴りました。驚きです。これからはきちんと展示します。
思えば、これ以降、こうしたミニカー類は販売されていません。子どもさんたちに人気を呼びそうですし、ぜひとも再び商品化していただけないでしょうか。JR北海道バス様のコンサドーレ号もデザインが変わりました。また、シズナイロゴス様の赤黒ラッピング車両や東邦交通様のコンサドーレタクシーもあります。ぜひとも売り出してほしいものです。
2021年09月17日
わが家の茶の間のテレビ置き場の上に、作り付けの飾り棚があります。中央部分の棚は3段あり、これまでは私の本を中心に雑多に置いていました。退職を機に、カミさんから片付けるよう厳しい指導が入り、最下段は絞り込んだ本を並べました。その上の2段は数日間、空きスペースとなっていたのですが、これまであちこちに置いていたサッポロビール様のサッポロクラシック応援缶を集めて並べてみました。すべて空き缶です。近年は飲んだ後、必ず保存するようにしています。2段すべては埋まらなかったので、大正製薬様のリポビタンDやコンサドーレ関係のDVD、CDなどを置いてみました。カミさんはあまり良い顔していませんが、当面はこんな感じで飾り付けていこうと思います。なお、応援缶はいつから保存しているのか今となっては不明ですが、2012年開幕という缶もありました。基本的にサッポロクラシック応援缶は祝杯用ですので、明日の神戸戦後に14日に発売されたばかりのEZOCAコンサドーレ応援缶を加えたいものです。
2021年07月26日
先日、コンサドーレグッズを整理していたところ、紙のうちわが出てきました。危うくカミさんにごみとして捨てられかけたのですが、このうちわはサッポロビール様が2000年に北海道新聞様に掲載した広告のコピー「背番号12の日々。」を印刷し、配布したものです。あらためて読んでみると、今では変わってしまった点は少なからずあるものの、現在でもその気持ちは共感できるのではないでしょうか。思わずうなずいたり、ウルウルするところもあります。今でも「コンサポあるある」と言えるかもしれません。オリンピックによる中断期間が続いていますが、あらためて今後もコンサドーレを応援していく決意を新たにしたいと思います。ご参考までにうちわに載っているコピー全文を紹介します。背番号12の日々。 室蘭には、何度も足を運んだ。函館にも行った、仙台にも行った、九州にまで、行った。1997年10月22日優勝の日、人目をはばからずに泣いた。1998年12月5日降格の日、もっと泣いた。初詣は、家内安全と勝利昇格を祈願する。車にステッカーが貼ってある。タイヤカバーにエンブレムが描いてある。ステッカーを貼った車を見ると「よっしゃ」と思う。月寒に雪割に行った。飲み屋の親父に「どーなの、今年は?」などと聞かれる。衛星放送に加入した。勝った日は大谷地駅までニコニコ歩く。負けた日は無言でトボトボ歩く。メガホンを3つ壊した。試合の翌日、良かったねーとか、残念だったねーとか言われる。コンサート、という文字につい反応する。赤黒のデザインに反応する。飛行機はあれしか乗らない。北海道土産は必ずあれにする。宝くじが当たったら半分は寄付する(つもり)。家族みんなでレプリカを着て地下鉄に乗る。娘が、ドールズになりたいと言っている、なったらうれしい、と思っている。ゴール裏で友達ができた。ゴール裏で出会った人と結婚した。スタジアムでは、よく通る声で知られている。裸になることで知られている。ツボを押さえた(?)ヤジで知られている。月曜日は声が枯れている。勝った試合のビデオは2回見る。負けた試合は早送りで見る。見ないこともある。メモ帳に結果を記入している。インターネットで熱く議論する。仕事の途中で、練習グラウンドをのぞく。出張はアウエー試合にあわせようとする。いろんなバッグにカンバッヂがついている。すべてのスケジュールは試合を中心に決める。そしてふと考える。北海道の人みんながこんな気持ちになって、こんな生活をしてくれたらいいなと。 さて今日も、クラシックを飲みながら私は思う。私はこんなに夢中になれるチームがある。心から応援できるチームがある。私は幸せだ。がんばれ、コンサドーレ札幌。勝つぞ、コンサドーレ札幌。私が、ついてるぞ。 11人の男たちに乾杯。12番目の自分に乾杯。北海道に乾杯。
2021年06月30日
6月21日で退職したのに伴い、カミさんから終活に向けた断捨離を命じられております。まずは山となっていた大量のコンサドーレの資料類から着手し、懸案だった資料整理を進めています。その中で、2010年の中から当時あったプレミアム会員の限定オリジナルグッズとして「ドーレくんシャンプーボトル」販売のチラシを発見。そういえば、階段踊り場のスペースに箱に入れたまま開封せずに置いていたなと思い、今回、奇跡的によみがえってきました。愛用するコープさっぽろの「せっけんシャンプー」500mlを入れて昨日から入浴時に使い始めたところ、11年もたっているのに経年劣化も見られず、ちゃんと働いてくれています。チラシによると、600個限定だったそうですが、今も現役で活躍されているご家庭もあるでしょうか。わが家ではできる限り長く愛用したいと思っています。
2021年06月05日
今年一番のつらい別れに直面しました。2011年にクラブの15周年記念グッズとして予約販売された「BIGドーレくん」とお別れしたのです。婿入り先はカミさんの友達が勤める職場。上司が熱烈サポーターなので、その点は安心していますが、事務所に飾られているようです。新天地での幸多かれと祈るばかりです。 もともとわが家では2003年に購入した「スーパービッグドーレくん」が和室に鎮座しておられます。後から来たBIGドーレくんも身長120センチと同じ大きさで、置き場所に困り、結局、事実上物置部屋となっている洋室でホコリをかぶっていました。決して好ましい環境ではないことは重々承知の上でした。ところが、私の退職が近づき、カミさんから強く断捨離を迫られており、カミさん主導でトントン拍子に移籍が決まってしまいました。まあ、ホコリをかぶっているよりも、多くの方に見てもらった方がBIGドーレくんにとっても喜ばしいことだと思うことにしました。それにしても、久しぶりに今年発売されたぬいぐるみの「おっちゃんこドーレくん」はいつ再販になるのでしょうか。クラブには商機は逃してほしくないのですが。ドーレくんのぬいぐるみは常時、販売してほしいものです。
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ブログタイトルは「真栄パパの思い出語り」から2014年2月に「習慣コンサ」に改め、さらに2022年1月1日から「毎日コンサ」に改称しました。「毎日が日曜日」なので、毎日、コンサドーレのことを考え、書いていきます。 気持ちだけは熱いですが、体がついていかない老年(2018年、還暦に突入)のぬるサポです。 北空知の秩父別町生まれ。札幌市清田区真栄に自宅があります。
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